決断


事情があってここ赤堤も実は僅か2年で退去せざるを得なくなくなるのだがそれは後日の事。その頃休日もなく真夜中に帰る状況が常態だった、然し家庭は妻が責任を持ってくれ、子供達と顔を合わせる時間も殆どなかったがお互い仕方がないと割り切っていたようだった。

仕事そのものの厳しさは、高度成長後の調整期でむしろ当然だとの思いもあった。ただ困ったのは支店長との関係だった。特に上司と部下との間に挟まってその調整に必要以上に神経を要した。(店員約40人中、部下得意先係13人)。


一旦承認が出ている案件が急に「ダメ」と指示されたり、預金係数を減らさない為顧客に相当の無理を強いねばない場面も増えた、特定の実力ある得意先係りの案件は断れと言っておいて実力担当本人が直訴するとOKに変ったりと、中間管理者の立場はピエロのようなものだった。


実は自分の前任者は組合委員長を歴任した豪傑肌の方だったが、この店で相当苦労をされたようで、後任が自分に決まってからわざわざ入院中に訪ねてこられた、今度の上司の難しさを聞かされたのも、むしろ先入観となり逆作用となったのかもしれない。


業績低迷が続いた折だった。ある日突然、従来自分が担当していた朝礼・担当者会議の司会・部下からの連絡・報告も支店長ご自身で行うと宣言され、中間管理者は素通りする形となった、自分の非力がそうさせたのだろう。それ故支店全体の空気も暗鬱になったように思う。


それには間接的には自分の事での事情もあったのかもしれない、有力取引先の社長と同行する機会があって、その時点で誘いを受けていた、一応お断りしていたのだが、礼儀として直接上司に相談されその事が支店長をして一層疑心暗鬼にさせたのかもしれない。


銀行員であれば誰でもそんな経験はあるものだろうが今度の場合魔がさしたとでもいうか、40歳を前に自分の生き方に多少疑問を持っていた為断定的断りが足りなかった故かもしれない。兎も角勘の鋭い「当行でも3人の一人」と噂された怖い一人ではあった。


そのような一夜、胸の奥にしまいこんでいたことを妻に初めて口にした。「銀行を辞めようか」と。勿論妻は驚き猛反対だった、然し一旦言い出したら聞かない自分の性格を知り抜いているだけに「子供達の事も良く考えてね、私は貴方に付いて生きます」と言ってくれた。

新宿街頭占い師


さすがに20年も勤めた銀行を辞めるとなると色々気になる事も多い、別に悪い事をしたわけでもないし退職を迫られたわけでもないが親戚筋・世間態もある、何より退職した途端に生活の心配をせねばならない、何の蓄えもない身に果たして親子4人が生きられるのか、指し当り住いはどうすればよいか、等々。


実は無鉄砲な話だが、退職後の事は辞めてから考えるべき事だと思っていた。兎も角与えられた目標達成だけは成し遂げる事が最も今肝心な事だと考え、担当者全体をも鼓舞し顧客回りにも精を出し店の雰囲気作りにも励んだ。


決算日近いその日の夜中も他人から見れば多分夢遊病者に見られたのかもしれない。終電近く池袋から新宿駅に降り、京王線に乗り換える途中、何の気なしに左側の小田急百貨店前の占い師と眼が合い、手招きされ留められた、気づくと無意識の内に引き寄せられらされていた。(当時京王線は路面で小田急デパート前から出発していた)


当時夜になると占い師20−30人が壁際に並んで提灯に灯りをつけて占いをしていたものだ、大体が若い水商売風の女性が主客で「恋い占い場」のようなものであった。占には全く興味もなく利用した事もなかったが然しその時は老占い師に吸い寄せられた感じがあった。


立ち止まった自分に開口一番「貴方は今、大変な事をやろうとしているね」、「それはとても危ない事だ」、「やってはいかん」、こちらが一語も言っていないのに図星を指され見透かされて、有無もなく占い師が勧めた椅子にへばりこんでしまっていた。


紙に生年月日を書かされ、大きな星型の表を広げ、一角を指差し「今貴方はこの星にいる」「動く時ではない」と宣うのだ。「もう決めた」に、老師は何度も「凶」を連発、何らかの方策はないのかと問う自分に「この難から抜け出すのは難しい、然し万に一つあるとすれば、住いを南のこの方向に変えなさい」世田谷の地図を取り出し下の方向を指差したのだ。



(写真は風情が失われつつある東京・赤堤の通り)

人生の転機

okamakoto2007-11-20


事情があって閑静な赤堤も実は僅か2年で退去せざるを得なくなくなるのだがそれは後日の事。その頃休日もなく真夜中に帰る状況が常態となっていた、然し家庭は妻が責任を持っていてくれ、子供達と顔を合わせる時間も殆どなかったがお互い仕方がないと割り切っていたようだった。


仕事そのものの厳しさは、高度成長後の調整期でむしろ当然だとの思いもあった。ただ困ったのは支店長との関係だった。特に上司と部下との間に挟まってその調整に必要以上に神経を費やした。(店員約40人中、部下得意先係13人)。


一旦「承認」が出ている案件が急に支店長から「ダメ」と自分に指示され、それが実力部下社員に言われてひっくり返ったり、預金係数を減らさない為顧客に相当の無理を強いねばない場面も増えた、特定の実力ある得意先係りの案件は大体が「断れ」と言っておいて、本人が直訴するとOKに変ったりと、中間管理者の立場はピエロのようなものだった。


実はこの店の前任者は組合委員長を歴任した豪傑肌の方だったが、この店で相当苦労をされたようで、後任が自分に決まってからわざわざ入院中も拘わらず訪ねてこられた、今度の上司の難しさを散々聞かされたのも、むしろ先入観となって逆作用をしたのかもしれない。


業績低迷が続いた折だった。ある日突然、従来自分が担当していた朝礼・担当者会議の司会・部下からの連絡・報告も支店長ご自身で行うと宣言され、中間管理者は素通りする形となった、自分の非力がそうさせたのだろう。それ故支店全体の空気も暗鬱になったように思う。


それには間接的には自分の事での事情もあったのかもしれない、有力取引先の社長と同行する機会があって、その時点で誘いを受けていた、一応お断りしていたのだが、礼儀として直接上司に相談されその事が支店長をして一層疑心暗鬼にさせたのかもしれない。


銀行員であれば誰でもそんな経験はあるものだろうが今度の場合魔がさしたとでもいうか、40歳を前に自分の生き方に多少疑問を持っていた為断定的断りが足りなかった故かもしれない。兎も角勘の鋭い「当行でも3人の一人」と噂された怖い一人ではあった。


そのような一夜、胸の奥にしまいこんでいたことを妻に初めて口にした。「銀行を辞める」と。勿論妻は驚き猛反対だった、然し一旦言い出したら聞かない自分の性格を知り抜いているだけに「子供達の事も良く考えてね、私は貴方に付いて生きます」と言ってくれた。

妻と子供達の苦労


妻からは自然に当時の苦労話が出てきた。上の娘が下高井戸小学校に転校し、下の長男は近くの幼稚園に入る事になったのだが行きたがらず毎朝泣くのを無理やり手を引いて行ったと云う。それまでに既に何回も転校を繰り返していて折角仲良しが出来た友達と引き離されたのだから余程悲しい想いをしたのだろう。


自分の勤務は池袋、それまで北陸二ヶ店、名古屋で一ヶ店と勤務先が変り、父兄会等にも一度も出た事もなかった。まして池袋時代は朝食もそこそこ、土日もなく、その日のうちに帰った記憶もない。だからどうして子供達を育ってくれたものか、今でもたまに見る夢の中の子供達もせいぜいが「ヨチヨチ歩き」で止っている。


その頃だったか「転勤で各地にたくさん友達が出来てかえって良いじゃーないか、転勤も悪くないぞ」と云ったことがあった、あの時子供達は部屋に閉じこもり顔も見せなかった事もあったっけ。それを妻が何とかなだめるのに苦労をした、とのこと。街中の公園ベンチで暫し妻の想い出話に耳を傾けつつ今更ながら苦労の一端に思いを馳せた。



(写真は淋しいお米屋さん閉店広告=東京世田谷・赤堤にて)

今「浦島」


当時の家族寮も確かにこのあたりだと家並みを探したが見当たらない、既に売られていて何軒かの分譲邸宅に変っていた、娘が通っていた学校も建て替え中で反って風情のないコンクリートの図書館みたい、商店街も「栄枯盛衰」、もっとまとまった都市整備が出来なかったものか。


偶然に昔からの米屋さんを見つけ話を聞くことができた、店の前に「今週で廃業します」のビラが痛々しい。このお米屋さんも古くから商いをやっていたのだが「この付近はすっかり変りました、近所の人も変り昔からの知り合いもいなくなり商売が成り立たなくなり決心したのです」妻に述懐する声は確かに涙ぐんでいた。


銀行の寮のようにまとまった土地は買占め屋の格好の目標となったのかもしれない、聞けばお得意も変り人間関係もすっかり薄くなったそうだ「長年の仕事を閉じるのには祖先に申し訳なくて」としみじみと述懐される古風な主人であった。


確かに所々に小さい公園が出来てはいたものの、小型マンションがやたら増えて夫々にハイカラな名前がついて世帯は増えたのかもしれない、新宿にも近いだけに格好な住宅地になったのだろう。入居者も若い世代らしく、それだけに夫々に人間的な付き合いもないのだろう。


何となく「栄枯盛衰」のはげしさ、東京のいびつな膨張・発展の現実、時代の変化のはげしさと共に、こんな感慨を覚える事事自体が、それだけ年をとった証拠なのかもしれないと「浦島太郎」の思いに駆られた。

東京の変貌

okamakoto2007-11-25



転勤族の住いは、辞令一枚で各地を転々と変るのだから、再度東京勤務になったといっても十数年も経つと「今浦島」である、独身時代は新宿にも近く独身生活を謳歌した、ところが訪ねた当時の寮は既に売却されていて戦後当時の面影は全くない。


毎日通勤で乗り降りしていた京王線高井戸駅は東急世田谷駅の始発駅でもあるが駅舎は立派に建て替えられていて駅舎の通路には飲食店等も入り昔の駅の印象は面目を一新していた。


反面で駅周辺の商店街はすっかり寂れてしまっていてむしろ活気はない印象を受ける、まして下高井戸駅を少し離れた住宅街はひっそり閑と静まり返っていて中級程度の住宅地となりお店らしい商店が実に少なくなった。


既に高度成長期を経てしまい、落ち着いたと言えばそうだが狭い道路がそのままなのだから決して整備されたとは云い得ない。家族寮は駅から僅か10分程度だったと思い込んでいたせいか道に迷って何度も「行きつ戻りつ」僅か10余年前まで毎日通っていた道さえも見つけるのに二人で苦労をした。近くの幹線甲州街道オリンピック道路となったせいか。

「都電15番」


その他に都内の交通機関として乗降の折「チンチン」と鳴らす「都電」が網の目のように張りめぐられていて都内には41区間もあった、夫々番号が付され、例えば?番は品川−新橋−銀座−神田―赤羽方面を走り市民の足として重宝な乗り物として利用されていた。



甲州街道沿いの京王線を初台(ここに立派な第二国立劇場が建てられている)さらに笹塚・明大前駅を越えた駅が下高井戸であるが、結婚後はここの家族寮で子供達は小学校に通った。