近くて遠きは


不動産屋の案内が高級車だったせいで、遠く感じなかった事もあり、自分は即決、そこに移ることにしたのだ、二人の子供達には赤堤の学校へはとても無理で転校不可避な事は契約後直ぐに分ったが手遅れである、「今に大きい家に移るからな」と妻子には言いきかせていた。


子供達はまたまた転校となり妻は手続に難渋したようだが区内同士だっただけ今までよりも比較的スムーズだったようだ。上の娘が東深沢中学校、長男は等々力小学校だった。(それにしても自分は多忙な毎日でとうとう一度も行ってやれなかった)


後で判った事は実際はこのような場合銀行規定では1ヶ月間の待機期間があったようだが辞めると決めた以上一日も早い方が良いと考えたのだ。家族寮には都内の各店約30世帯が住んでいて妻も夫々仲良く付き合っていたものの会って余計な事をうのを避けたかったようだ。


尚、自分の後任者として赴任し、社宅も引き渡したH君は僅か半年も経たぬ内に精神的なノイローゼで銀行を辞めたそうだ、H君とは一緒に仕事をした事はなかったものの頑張屋で優秀の誉れの高い男だっただけに惜しい人材だった。


ところで自分の事だが、急に転居した等々力のアパートではその後何と6年間も居付く事となった。事業を立ち上げるのに予想以上に時間が掛ったからだった。確かに家賃は安い方だったのだろうが二人の子供を育てながらよくも耐え抜いたものと今更ながら驚いている。その閑のことについては妻は余り口にした事がないのが救いである。


先日妻と目黒通りをバスでそこを訪ねて見た、殆ど30年ぶりであったが驚いたことに目黒通り近辺はすっかりビル街になっているのに旧いそのアパートがそっくりそのまま当時に変らず建っていた、4畳の部屋に2段ベッドを設えて子供達がいつも「越境した」「していない」とケンかをしていたのがついこの間のうように思い出された。


(写真は銀く退職後6年も住んだ東京・世田谷・等々力のアパート)