2005-06-01から1ヶ月間の記事一覧

邦銀競って海外展開

当時邦銀は「国際化」の熱に浮かされた状態だった、地方銀行までも競って海外出店した。81年3月に337箇所の海外拠点は91年3月には752箇所、10年で倍増強の勢いであった。 軒並み日本の銀行は「短期」資金を集めて「長期」金利の高いアメリカへ向い、生損保等…

高金利の「エサ」

日本のアメリカ国債購入額は76年の総額が1億9700万ドル、それが86年4月には1380億ドルに達しているのである。これは10年後には700倍にも達している、この事からも如何に巨額の金がアメリカに向い、アメリカの財政に組み込まれたか、と言うことである。 アメ…

レーガノミックス

81年、レーガン政権は、所謂「レーガノミックス」政策をとる、減税と軍事支出を増大させて消費を煽り、国内経済を活発化させル政策をとったのである。これによって財政赤字は83年2000億ドルにも達した、これはアメリカGDPの6%にも相当する巨額なものだ。…

自戒の念

ところで、偶々その1980年にスウエーデンからヨーロッパ数カ国訪問の機会があった。その折に痛感したのは各国のインフラ(社会資本)整備の素晴らしさであった。北欧・ヨーロッパ共、福祉施設・道路・ガス・水道・交通機関等、日本とは隔世の感があった。 加え…

レーガンの「強いアメリカ」

「資本取引の自由化」「外為実務の規制緩和策」の上に、1980年に「強いアメリカ」を演出する共和党のレーガンがアメリカ大統領に就き、西側の盟主として軍備の拡張に膨大な国費を投入するに及んでアメリカの財政は急速に悪化し、アメリカはインフレ経済の社…

助けて「恨み」をかう

「日本人がハワイを買っていると聞いてとても嫉妬を覚えた、私の暮らしはちっとも良くならないのに日本人がハワイで楽しい思いをしているなんて、我慢ならない」(アメリカWABC放送局に放送中に掛ってきたカリフォルニアの女性) 「日本から毎日300万ド…

80年代の日米関係

シエクスピアの作品に「ベニスの商人」と言うのがある、ユダヤの金貸しを巡るお話だが、「金を貸す」と言うのは、つくづく難しい仕事だと思う。日本が働きバチで過労死も厭わず稼ぎに稼ぎ、そのカネを金不足に苦しむアメリカに貸し込んだのだが一体それがど…

対米投資急増

尚、別の統計によれば貿易黒字の対米依存度は日本が70%前後、対して西ドイツは10−20%の範囲内で推移している。 共和党レーガン政権の下で年間2000億ドルの財政赤字と1000億ドル近い貿易赤字でアメリカは純債務国(金を借りる方)に転落し、一方日本は純債権…

「一斉」は日本人の習性

日本の場合、どこか一社が良いとなれば集団で一方向に走り、続いて各業種も続々とそのような行動に走る特性があるように思う。 もう一つの資料として、先進各国の対米貿易黒字実績表を、中央大学「現代国家の理論と現実」379ページ表から引用させて頂く。(出…

カネがカネを生む世界

本来は例えば日本から車や機械を輸出して代金をドルで受け取り円に替える、原油を輸入して代金を円からドルに買えて決済する、これが従来の為替取引きの常識だったのだ。ところがアメリカの金利が高いとなるとアメリカへ投資をする、債券を買う、トレーダー…

電子取引主役の時代へ

これはアメリカで生まれ瞬く間に世界に勢力を張っていく「電子商取引」の目覚しい発達が引き起こしたものだが、この結果輸出入に関係のない「スワップ」「オプション」「デイリング」「ヘッジファンド」等の分野が圧倒的割合を占める事になったのである。 特…

怒涛のような対米投資

70年代以前までは円やドルの売り買いは輸出と輸入の実需に伴って発生するものであった。ところがアメリカの規制緩和政策で為替の規制が撤廃され、資本取引が自由化された結果、諸外国から投機資金が金利の高いアメリカに流れ込むようになった。

日本叩き始る

アメリカは輸出は伸び悩み、片方で輸入が増加し続けたことで71年、遂にアメリカの貿易収支は赤字に転落するに及んだ。福田内閣当時、77年10月末外貨準備高は195億余と史上最高を記録するに及んでアメリカの不満は日本に集中する。 このような状況で「これは…

戦略なき「規模拡大」

60年代、池田内閣が掲げた「高度経済成長政策」で、日本は飛躍的な経済成長を遂げ、68年末には遂に国民総生産が1428億ドル、と経済規模では西ドイツを抜いて、アメリカに次ぐ世界第2位の座についていた。 対米貿易黒字が日米間の最大の政治問題になったのは…

固定相場に安住

日本はアメリカの占領下の昭和24年、GHQから単一の為替レート(1ドルが360円)を与えられ、その後1952年にIMFに加盟を果たした際にも同じ1ドル360円と決められた。 その後の日本は、この固定相場制に慣れきっていて、あたかも「ドルと金」が兌換制下に…

ドル信仰の日本

ニクソン大統領が1971年8月15日、突如として発表した「新経済政策」は「ドルと金との交換は行わない」と言うもので、従来ドルを基軸として来た世界にとっては大変な驚きであった。特に「ドル信仰一筋」で来た日本にとっては「青天のへきれき」の出来事だった…

フランスの慧眼

尚、1960年代、フランスのドゴール大統領はフランスが保有する大量のドルを一挙に金と交換するようにアメリカに求め、アメリカが応じた局面があった。フランスはいち早く「プレトンウッズ体制の崩壊」を予想し、その時点でアメリカの行く末を見通していたと…

「マーシャルプラン」

早速第二次大戦終結後、アメリカはヨーロッパ復興援助の名目で130億ドルに上る「マーシャルプラン」を発表した。これはすべてドル建てで行われ、このことは当時世界から「アメリカの寛容さ」として受け止められたが、実際にはドルを全世界に認知させるべく周…

「プレトンウッズ体制」

この会議では、大戦後の世界経済の主導権を巡って英米の激しい攻防があった。アメリカはポンドに代る通貨として自国のドルを基軸通貨とすることを主張、一方イギリスは永年の基軸通貨ポンドの地位を護るべく、「バンコール創設」を対案として提案、激しい攻…

アメリカのマネー戦略

アメリカは余力の資本を先ず中庭である中南米諸国に向けていく。軍事的、政治的に支配力を行使し、民間資本主体とした投資政策で身近な中南米諸国をドル経済圏として育成していくのである。このアメリカのマネー戦略こそはその後のアメリカの急激な進展と基…

ドル基軸

基軸通貨になり得るにはその国の経済基盤が他国から見ても磐石でなければならない。アメリカは第一次大戦では全く無傷で、むしろ大戦以前のイギリスからの大量資本導入で既に世界最大の工業国家を成し遂げていた。 同時にアメリカは、当時20世紀初頭には世界…

アメリカの台頭

一方アメリカは新興債権国として周到なマネー戦略でイギリスに代るドル支配体制を世界に向け構築していく。アメリカは第一次世界大戦では全く圏外にあって工業力も無傷で残り、むしろ大戦終結後積極的にヨーロッパの戦後復興にドル体制で貢献していく。 アメ…

「世界恐慌」が追い討ち

更にこの債務の返済のためにイギリスは海外資産を手放し、加えて大戦後1929年の世界恐慌はイギリス経済を直撃した。1930年代の世界的不況と金融混乱は、結果的に大英帝国イギリスを没落させ地盤低下させてしまった。

「大戦の戦費」が転機

その大国イギリスポンドが機軸国の座から離脱し、新興のアメリカドルにその座を譲る事となったのは、第一次世界大戦参戦が契機であった。欧州が主戦場となったこの戦争でイギリスはドイツと対決し、膨大な戦費調達でアメリカの支援を受ける立場に立たされた。

世界の中心「ロンドン・シティ」

貿易と海外投資を通じ基軸通貨ポンドを世界に散布し回収する役割は世界の金融の中心地「ロンドンシティ」で行われ、世界の銀行イングランド銀行が中心的役割を担っていた。世界に君臨する覇権国として「ポンド」は正に基軸通貨そのものだった。

ビクトリア時代

近代世界で経済の主軸となっていたのはイギリス「ポンド」であった。特にイギリスが隆盛を極めた「ビクトリア王朝」時代(1837−1901年)には、名実共に「七つの海」を制覇し、大海運国として植民地支配と海運収入で世界に覇をとなえていた。 海運収入で得られ…

日本の「金と人」

「ミサィル防衛計画」は、敵が発射した核ミサィルを空中で「迎撃」し、到着前に打ち落とそうと言うシステムで、未だ実験段階であり、実用化までに気の遠くなる程の「金食い虫」であることは軍事専門家でなくとも広く知られた事だ。今の財政状況が逼迫してい…

米国の下請け国

話は変わるようだが、先日来ワシントンで行われた「日米防衛首脳会談」で大野防衛庁長官が米軍基地の再編に絡んで、縮小するアメリカ軍に替わる日本の「自衛隊装備」のレベルアップと、「ミサィル防衛共同開発計画」に来年度から巨費を投じる約束をしてきた…

第二次敗戦

第一次の「日米敗戦」太平洋戦争から60年、次の「第二次敗戦」から既に十数年経つ。然し、平成の今でも、2回目の敗戦で企業が蒙った甚大な損害を「銀行不良債権処理」の形で国民が黙々と「銀行利息を返上して」支払いを続けているのだ。 問題は、形は違うと…

失敗から学ばぬ民族

日米経済戦争「第二の敗戦」は、1980年代のバブルの発生とその破裂の経過を経て表面化した。その被害の実相は、あの太平洋戦争の大惨禍に匹敵する程惨憺たるもので、正に「死屍累々」の感さえある。最終的には名だたる日本の企業が完膚なきまでに打ちのめさ…