2005-11-01から1ヶ月間の記事一覧

農村「近代化」の代償

何故そうなったかと言うと、その原因は「都市化・近代化」の波で、昔からの農村特有の「相互扶助」「助け合い」関係が崩れてしまった事にあるように思う。 昔は一旦「冠婚葬祭」となると,近隣・集落一同が「助っ人」となり、「賑々しく御膳立て」して、家人に…

ふるさとの「冠婚葬祭」

今年も残すところ1ヶ月となり、朝晩めっきり寒さを覚える今日この頃である。季節の変わり目のせいか(自分がそれだけ年取ったせいもある)身近に訃報が多く、今月は急遽2回もふるさと北陸へ旅して来た。 何時行っても故里の自然は懐かしく、心も安らぐ。然し…

「邪魔者は殺せ」社会

そう見てくると,この風景は最近の世相の一面を際立たせているのではあるまいか、他人を「詭弁と騙し」の手法で押しのけ、成り上がっていく近年の「トップ像」である。 小泉さんも国会の予算委員会等で、答弁に窮すると「居直り」と「論理のすり替え」で切り…

トップの詐術

暫く雑用もあってこのページも休んでいた。その間に世間では様々な出来事が起きていた、その一つに、マンション建築の耐震設計に意図的な構造計算の偽造事件があった。 国会でもこの問題が取り上げられて、今日29日午後の衆議院建設委員会に、参考人として関…

歴史的事実

尚,歴史的事実として、1947年9月,天皇は密かに「米国が沖縄・琉球諸島を長期占領する事を希望する」としたメッセージをアメリカに送ったと言う.(1989年1月11日朝日新聞記事) 更に天皇は、朝鮮戦争勃発の際に戦争に米軍参加に感謝のメッセージを送ったり、翌…

昭和天皇の道義的責任

「陛下は一国の元首として,このたびの戦争敗戦の責任を,先ず第一の責任者としてお執りにならなければならない」 「陛下は軍の横行を許して、多年、策を施し賜わざる怠慢の責任もおありである」「今日、国民の道義の退廃は,識者の誰しもが例外なく皆が指摘し…

「残念」の想い

私自身は昭和一桁世代として、かっては命をも掛けたお方でもあり、天皇への敬愛の念も強い方だが、それだけに何故,(皇太子ご成婚の後でも良い)、潔い身の処し方をされなかったのかと残念な思いを禁じ得ないでいる。 特に近年この国の道義の乱れを身近に見…

「女系天皇」

最近、皇位継承問題が論議されていて、天皇は「男系」のみとするか、それとも「女帝」や「女系天皇」を認めるかどうか小泉首相の諮問機関で議論されている。 小泉氏は既に「女系天皇、良いではないですか」と言っている、自分の政権で「歴史的決定」をしたい…

マッカーサーの「日本人12歳説」

日本進駐のマッカーサーが「日本人12歳説」をとなえた、「日本人は無邪気・幼稚で、あたかも12歳の幼児」だ,と看破したのだ。 駐日元大使グルーも60年前、,次のように云っている。『日本に於ける天皇制は日本社会の安定要素であり、天皇は大勢の働きバチが仕…

戦後初の総選挙

そのような中で、戦後初の総選挙は敗戦翌年4月10日に行われた、自由党141、進歩党94、社会党93、協同党14、共産党5無所属・諸派119、これが選挙結果であった。 上記の通り総選挙の結果は旧保守勢力の勝利の結果となったのである。選挙結果が保守優位に働いた要…

「第三の道」

戦後いち早く各政党が取り組んだのは将来の日本の進むべき国家像である、その際、論議の中核になるのは「主権」と「天皇」の位置付けであった。昭和20年11月から21年に掛け相次いで発表した各政党の方針の概要は下記の通りである。 自由党は「憲法改正要綱」…

天皇と天皇制の問題

敗戦前後から既に戦勝国側で「天皇の戦争責任論」が活発に交わされ、結果的には(既述の通り)戦後の日本統治に「天皇の役割を利用する」事となった。 国内にも「天皇退位論」はなかった訳ではない、当時、「皇太子の即位」によって「元号も改元」するのが妥…

敗戦後の天皇

率直なところ、現在のように日本人に「道徳観念」が欠如し、「責任感や、けじめ」のない国になった大きな要因として、「国家のトップ」が敗戦後の自らの「出処進退」を回避して来た事が大きいと感じている。 「宣戦布告書」にご署名もされ、「そのお方の為」…

「君主制」から「共和制」へ

トリアッティの提案でパドリオ国王首班の国民統一政府「戦争遂行内閣」に結集、統一軍は対独国土開放戦争に打って出て1944年ローマ―以北が開放された。 国土解放後、イタリアは「君主制」か「共和制」かの国民投票を実施、結果は「共和制支持票」が「君主制…

退位したイタリア国王

第二次世界大戦を日本・ドイツと共に戦って真先に連合軍に降参し敗戦したイタリアは、それまで「君主制」をとっていたが敗戦後「共和制」となった。 社会主義国「イタリアの道」とか「サレルノの転換」と称される第二次大戦敗戦後のイタリア・パドリオ国王の…

「トップ」の重さ

親が子を殺し、子が親を殺す、教師や警察官・裁判官・官僚が犯罪者に名を連ね、政治家はヤクザまがいの言辞を弄し、首相も平気でウソも吐く、最悪なのはトップのそれが罷り通っていることだ。 「物も足り、豊かさも出来た」今日の日本で、何故このように末世的…

「道義為之根」

上掲の言葉、「道義為之根」―「人間として道義が根幹」と言うのは60年も前、自分達が旧制中学に入学した当時、歴史のある教育の殿堂―の講堂正面に掲示されていた額縁での「漢語の言葉」であった。 この額縁は、明治時代創校時に由緒ある方の揮毫によるものと聞…

「天皇」

戦後処理の問題として戦勝国側で最大の問題となったのは終始「天皇」の処遇問題だった。 戦勝国の中でも硬軟様々に論議がある中で、最終的にアメリカが天皇を政治的に「利用」する立場から「象徴天皇」として憲法で天皇制を容認する事とした。 「日本国民は統…

A級戦犯容疑者の首相

敗戦から6年後の昭和26年9月8日、サンフランシスコで対日講和条約が締結された、既に前年に「朝鮮戦争」も勃発して、東西対立が激しく西側49カ国との「単独講和」だった。 サンフランシスコでの講和条約締結と同時に日本とアメリカの間には「日米安保条約」…

新権力者

マッカーサーの最初の指令は、「民主化の第一歩」として、日本政府に対し「民権自由に対する指令」を出した(9月22日)。 更に、「民主化の5大改革」を指令した、その要点は①婦人の開放②労働組合結成の奨励③学校教育の自由主義化④秘密諮問司法制度の撤廃⑤経済制度…

敗戦革命

一国の「権力の移動・交代」を「革命」だとするならば、太平洋戦争での日本の無条件降伏、敗戦,米軍の占領統治は正に「昭和革命」そのものであった。 「昭和革命」では、当初、連合国側は戦後処理策として、天皇をも「戦犯」として拘束し、戦争責任を厳しく追及…

マスコミの屈服

日本人は次元の低い問題にされると,特にテレビは煽情的に反応し,権力に立ち向かうべきジャーナリズムも「競争意識」が先に立ち腰が引ける。 結果的には,新聞社は記者を擁護せず、国家権力に立ち向かわず、「政治権力に屈服」して「一件落着」となった。 沖…

「沖縄返還」交渉

佐藤栄作氏は7年8ヶ月にも亘る長期政権を「沖縄返還」を花道にして、昭和47年6月17日引退を表明した。 奇しくもその当日は、「ウオーターゲート事件」がアメリカで発覚した日に当る。ニクソン大統領はその事件2年後、マスコミと世論の攻撃の前に辞任に追い込まれ…

「佐藤不逮捕」の指揮権発動

そもそも佐藤栄作氏は東大卒業後、旧鉄道省(後運輸省)に入り、鉄道官吏として運輸事務次官まで登りつめた役人タイプの典型的な「能吏」であった。 昭和29年第5次吉田内閣で当時自由党幹事長に就いた佐藤氏は、造船疑惑事件で「収賄容疑」で検察庁から逮捕状が…

戦後最長「佐藤栄作内閣」

「岸信介内閣の3年5ヶ月」と実弟「佐藤栄作内閣の7年8ヶ月」を併せると、この二人の兄弟で実に11年に亘って最高権力者として君臨し国政を牛耳った事になる。 途中に池田内閣の4年間を挟んでいるが、佐藤内閣は単独でも首相として戦後最長記録を達成し、最後…

「逆コース」

ところが30年代以降に入って今日まで、いわば息の長い「逆コース」が続いている。それが可能になったのは、岸氏のような戦前的価値観を引きずる政治家や政党が淘汰されず、国会の議席を占め続けてきたからではあるまいか。 原彬久著『岸信介証言録』(毎日新…

「権力」と「闇社会」

翻って見ると、日本という国の歴史には、このような時代―「ウイングが左右に振れる瞬間」―に権力と連動した過敏な分子が輩出して事件が起きているのではあるまいか。 青年将校による昭和7年の「5・15事件」、昭和11年の「2・26事件」は日本が戦争に入る予兆…

「庶民政治家の喪失」

事件の衝撃も大きかった、浅沼氏は社会党右派出身ながら、それまで左右別々だった党を一本にまとめ、統一社会党として野党の先頭に立って国民の目線で岸政治を激しく批判し続けていた。 浅沼氏は、豪放磊落な庶民的政治家で下町のアパート暮らしを続け、当時…

「浅沼稲次郎氏刺殺」

新安保条約が自然成立し、岸信介首相は内閣総辞職を表明し退陣した。後任には池田勇人氏が就任した、事件が起きたのはその直後の事であった。 昭和35年10月12日、それは正に首都東京のど真ん中、それも白昼、警備は厳戒態勢下「衆人環視」の中で起きた。 こ…

強権「逆コース」政治

然し、岸内閣は世論には全くお構いなく国会へ警官隊を入れて自民党だけで委員会及び本会議で強行採決、衆議院をも自民党単独で「日米安保条約」を通過させてしまった。 岸氏は参議院へは送らず自然承認で条約成立を企図して、成立後にアイゼンハワー大統領を…