戦後初の総選挙


そのような中で、戦後初の総選挙は敗戦翌年4月10日に行われた、自由党141、進歩党94、社会党93、協同党14、共産党5無所属・諸派119、これが選挙結果であった。


上記の通り総選挙の結果は旧保守勢力の勝利の結果となったのである。選挙結果が保守優位に働いた要因の一つは、それ以前から始められた「天皇巡幸」があった。天皇行脚は確かに民衆の心を捉えたのである。


同時に選挙に際しては戦時中からの「隣組組織」「協同組合組織」等が保守党有利に働いたのも事実だったろう。


ここで際立ったのは共産党の「天皇制廃止・天皇の戦争責任追及・皇室の存続は人民の意志によって決定する」の選挙スローガンである。これは、他党とは際立った過激なものと大衆には映った。


その時に中国延安から帰国した野坂参三は「今の日本人の心情からは天皇制と天皇個人とを分けて考える必要がある、「将を射んとすれば先ず馬を射よ」天皇個人への攻撃は慎重にすべき」と訴えた。


野坂は日本の民主化には段階的に進めるべきで時間を掛けねばならぬ、と考えていたのだ。然しこの野坂の意見は共産党指導部には入れられなかった、


既に記した知識人も決して天皇制廃止論者ではなかった、ただ裕仁天皇が道義的責任をとって退位されることが、道義を根幹とした日本の未来の為に必要だとし、同時にその事が結果的には「天皇制」存続に連なる、と主張していたのである。


当時の各政党が「天皇制廃止」か「存続か」の「二者択一」議論ではなく、大同団結してこの「第三の道」を選んでいたら。


そして、天皇本人並びにその取りまきが賢明であったら、その後の日本はもっと「道義を根幹」とした尊敬される国になっていたに違いない。



(写真は東京・多摩・高尾山から相模方面を望む)