有難かった最初の職場


人間の基本は最初の職場で作られるものだと思う。社会人として最初に入った銀行は大変素晴らしい先輩や同輩に恵まれ楽しい職場だった。特に雪深い田舎の農家に生まれ姉妹の中に男一人だったせいで、未熟の時代に首都東京で勤務・生活出来た事は今思っても素晴らしい幸運な事だった。


敗戦後の没落地主で大学進学出来なかった分を勤務の傍ら夜学への路も与えて頂き理論と実戦の両面でも教育の機会を頂いた事は今では考えられないのではなかろうか、加えて名古屋、北陸の中都市等を経て・再度都内勤務経験を得たことはこれまた素晴らしい体験であった。


時代がそうさせてしまったのか最近はどの職場も厳しい環境となって、人間関係も厳しいと聞くと、自分の我儘から勝手に辞めたにもかかわらず今も多くの方々と親しくお付き合いさせて頂いている事だけでも有難い事と感謝の念を強くしているところだ。


その人生の親元を勝手に辞めてから早くも40年近い37年も経ってしまい,勝手ながら「歴史の一こま」と考えました。その後色々な試練を重ね波乱を乗り越えながら今日に至りましたのも「幸運」と「奇蹟」だったろうと思います。偏に支援して下さった数多い恩人と、加え、終始支えてくれた妻子にも改めて頭の下がる感謝の思いを強くしています。


喜寿を迎えた今、振り返って正直「裏切られた」と恨みに思った時期もありましたが、今は夫々に得難い恩人だったと思うようになっています、逆にこの機会にご迷惑をお掛けした方々には心からお詫びを申し上げたい。兎も角家族四人今日まで生きられた事に感謝している日々です。

反省と感謝

okamakoto2007-12-30


   
何でもそうなのだろうが,「追っ掛けるのは楽しい」ものだが、「追っ掛けられるのは辛い」ものだ。今年は特に日記も遅れがちで、まして自分の忘れたい過去を振り返るのはとても気が重かった。、


実はかねて、拙いながら自分の今まで歩んで来た過去の経緯を、どこかで一度まとめてみたいと思っていた。然し色んな事情で中々そこへは踏み込め得なかった。未だ「歴史」と言うのには生々しかったからだ。兎も角音楽で云えば「序曲」だけは書きおえたのではなかろうか。


生れてから社会人になるまでに種々の変った辛い経験もあるのだが、時間が許せばも幾つかの楽章に区切りをつけつつ振り返る事としたい。自分のように「身勝手」で「思慮なき」「田舎者」が兎も角もここまで来た過程で実に多くの人達にご迷惑をお掛けして来た事に改めて自省し、汗をかいている。

「波乱万丈人生」の軌跡


実はここで下手な自分の日記に一区切りしたい、と思っている。多少余計な事を記したように思うし、口にしてはならぬことも書いたように思う、然し関係者の方には既に鬼籍に入った方もあると聞くと既に過去は歴史の一ページだったと思うからだ。


むしろこの後の「山あり、谷あり」の「波乱万丈」の人生後半の方が「本筋」だ、結果についてはすべて自分の未熟さといえるのだろうが、折角自他共に「業界一」の信頼と地位を交通業界に築きながら、信頼していた部下に裏切られ、「上場」目前に乗っ取り屋にしてやられた。正に「天国から地獄」に転落し悔しさと恨みと残念さを骨の隋まで味わった。


然し、あれから早くも10年がたち、静かな気持ちで過去の封印を解くのも無意味ではないように考えるに至った、企業買収・乗っ取り・M&Aが罷り通り、「騙すより騙される方が悪い世界」、急激に義理も人情も失せた最近の日本の現状。


振り返るのさえ避けて来た己の軌跡は、むしろこれから起業を目指す若い方には「反面教師」たり得るものが多く含んでいるのかもしれないと考えるからだ。


多分、これを記すことでご迷惑をかける方もあるかもしれない、然し出来れば極力感情を抑え事実を正確に記してみたい、この親切ですっかりなじんだ「はてなさん」を舞台に、意匠も多少変え「第一章」から記してみようと考えているところである。




来る年の幸せを祈念しつつ。

近くて遠きは


不動産屋の案内が高級車だったせいで、遠く感じなかった事もあり、自分は即決、そこに移ることにしたのだ、二人の子供達には赤堤の学校へはとても無理で転校不可避な事は契約後直ぐに分ったが手遅れである、「今に大きい家に移るからな」と妻子には言いきかせていた。


子供達はまたまた転校となり妻は手続に難渋したようだが区内同士だっただけ今までよりも比較的スムーズだったようだ。上の娘が東深沢中学校、長男は等々力小学校だった。(それにしても自分は多忙な毎日でとうとう一度も行ってやれなかった)


後で判った事は実際はこのような場合銀行規定では1ヶ月間の待機期間があったようだが辞めると決めた以上一日も早い方が良いと考えたのだ。家族寮には都内の各店約30世帯が住んでいて妻も夫々仲良く付き合っていたものの会って余計な事をうのを避けたかったようだ。


尚、自分の後任者として赴任し、社宅も引き渡したH君は僅か半年も経たぬ内に精神的なノイローゼで銀行を辞めたそうだ、H君とは一緒に仕事をした事はなかったものの頑張屋で優秀の誉れの高い男だっただけに惜しい人材だった。


ところで自分の事だが、急に転居した等々力のアパートではその後何と6年間も居付く事となった。事業を立ち上げるのに予想以上に時間が掛ったからだった。確かに家賃は安い方だったのだろうが二人の子供を育てながらよくも耐え抜いたものと今更ながら驚いている。その閑のことについては妻は余り口にした事がないのが救いである。


先日妻と目黒通りをバスでそこを訪ねて見た、殆ど30年ぶりであったが驚いたことに目黒通り近辺はすっかりビル街になっているのに旧いそのアパートがそっくりそのまま当時に変らず建っていた、4畳の部屋に2段ベッドを設えて子供達がいつも「越境した」「していない」とケンかをしていたのがついこの間のうように思い出された。


(写真は銀く退職後6年も住んだ東京・世田谷・等々力のアパート)

アパート探し


10月1日から早速せねばならぬ事はアパート探しであった、社宅を出なければならないためである、早速近くの不動屋に飛び込んで子供に迷惑の掛らぬよう同学区内を探したのだが、さすが街の不動産屋だ、「少し距離があるが同じ世田谷区内で良い場所がある、ここから真南だよ、直ぐご案内しましょう」、となった。


世田谷区は高級イメージがある反面広範囲で、且つ戦災を受けていないせいか道路が狭く一方通行路が多くうっかりすると迷路にはまり込んでしまう。直線距離では近く見えても電車か環状7号又は環八で大回りするのが普通である、赤堤が北端とすると等々力は南端に当る。


その間の直線距離では10キロ程かも知れないが、そこはさすがにご当地プロ業者、運転は、農道を曲がりながらも豪邸を見せたり30分も走り農園の一画に建つ目的の物件そ案内してくれた。農園の中でぽつりと建った小アパート外階段があり2階には地主の親類が住んでいる由だが1階部分が貸室で2間しかない和室である。「隣の空き地は車庫として使えますよ」であった。

退職前後の事

okamakoto2007-12-20



丁度9月決算前のことである、兎も角、支店の成績の成否は実質得意先係長の責任である、決算だけは良い成績を挙げ有終の美を飾ってやろうと固く心に決めた、部下にも叱咤激励、率先して早速幾つかの仕事上の懸案解決にも努めた。


支店長への意思表示は決算見事目標達成の翌日、10月1日早朝、懐から辞表を出し「勝手ですがお願いします」と差し出した。全く予期せぬ様子で顔色を変え「何故だ、お前はこれからの人間ではないのか」等々、以降色々の形で慰留され、約半月閑は机の中に伏せられていたようだ、ただ変心はないと判断され、約20年の銀行生活に終止符を打つ事となった。


尚、銀行規定で辞表受理から1ヶ月間の待機期間が決められていて10月末までの1ヶ月は通常どおりの勤務を義務付けられていた。従ってその間は正直「針のむしろ」で、早朝から担当部下と得意先を表敬しながら担当者への今後の協力をお願いに廻った、然し「退職する」とは口にはしなかった。


その間銀行首脳部諸氏から公私に亘って硬軟の働きかけが自宅妻にまで連絡が入り「思い留まるよう」説得を受ける日々が続いた、特に妻の母親の弟(叔父)が当時は札幌代表店長で、その後直ぐ本部部長となった人格者で人望ある人でその誠実な説得には正直電話の前で平身低頭していた。


得意先の中には自分が何度も訪問してようやく取引に至った上場の大手の会社もあった、日頃、財務部長から「君が余り熱心だから無理に取引をしているんだぞ」、といつも脅かされこれを機に取引が引き揚げられるおそれの先もあった。


最もショックだったのは愈々退職する前日に、日頃店でも最も人気のあった支店長付き若い女性社員から「私物以外持ち帰らぬよう、顧客の名刺や資料とそれに貴方の使い残した名刺も残らず返してね」と、実に言いにくそうに床に目を落とし告げられた事だった。役目がらの指示ではあったろうが彼女の目から涙が落ちていた光景は今でも目に浮ぶ。

新宿街頭占い師


さすがに20年も勤めた銀行を辞めるとなると色々気になる事も多い、別に悪い事をしたわけでもないし退職を迫られたわけでもないが親戚筋・世間態もある、何より退職した途端に生活の心配をせねばならない、何の蓄えもない身に果たして親子4人が生きられるのか、指し当り住いはどうすればよいか、等々。


実は無鉄砲な話だが、爾後の事は辞めてから考える事だと思っていた。兎も角与えられた目標達成だけは成し遂げる事が肝心だと考え、担当者全体をも鼓舞し顧客回りにも精を出し店の雰囲気作りにも励んだ。


決算日近いその日も他人から見れば多分夢遊病者に見られたのかもしれない。終電近く池袋から新宿駅に降り、京王線に乗り換える途中、何の気なしに左側の小田急百貨店前の占い師と眼が合い、手招きされ無意識の内に引き寄せられらされていた。(当時京王線は路面で小田急デパート前から出発していた)


当時夜になると占い師20−30人が壁際に並んで提灯に灯りをつけて占いをしていたものだ、大体が若い水商売風の女性が主客で「恋い占い」のようなものであった。占には全く興味もなく利用した事もなかったが然しその時は老占い師に吸い寄せられた感じがあった。


立ち止まった自分に開口一番「貴方は今、大変な事をやろうとしているね」、「それはとても危ない事だ」、こちらが一語も言っていないのに図星を指され見透かされて、有無もなく占い師前椅子にへばりこんでしまっていた。


紙に生年月日を書かされ、大きな星型の表を広げ、一角を指差し「今貴方はこの星にいる」「動く時ではない」と宣うのだ。「もう決めた」に、老師は何度も「凶」
を連発、何らかの方法を問う自分に「この難から抜け出すのはほんの一筋しか方策はない、南の方向に住いを変えなさい」世田谷の地図を取り出し下の方向を指差したのだ。