「トップ」の重さ


親が子を殺し、子が親を殺す、教師や警察官・裁判官・官僚が犯罪者に名を連ね、政治家はヤクザまがいの言辞を弄し、首相も平気でウソも吐く、最悪なのはトップのそれが罷り通っていることだ。


「物も足り、豊かさも出来た」今日の日本で、何故このように末世的な「殺伐」「無責任」な状況になってしまったのかと、考えている。


歴史を遡ると際限がないかもしれないが、今更ながらだが何と言っても日本の場合、過去「敗戦の区切り」を明確にして来なかった事が大きいように思う。


天皇がどの程度「開戦」に係ったかについては色々と議論のあるところである、然し会社にしろ団体にしろ、まして一国が世界を相手にして戦った結果が「敗戦」した事実の前にトップが責任を執る、執らないと言うのは実に重い事だ。


例えば「講和条約」を期に皇太子に後を譲り、退位されていたら、明らかな事はA級戦犯容疑者「岸信介氏」の出番もなかったに違いない。


マッカーサーも当初の「天皇戦犯」から「天皇利用」に変更した際、近い将来、皇太子への禅譲天皇退位を想定していた、と言う。


昭和天皇は「己を護って天皇制を死守した」つもりだったかもしれないが、極言すれば日本民族を見殺しにしたのではあるまいか。


「出処進退」は、最後は本人の「道義心の問題」だと言われる、「道義為之根」の立派な額は、確か「皇室ゆかりの方」の揮毫と記憶する。


(写真は東京・多摩・高尾山・茶店風景)