天皇と天皇制の問題


敗戦前後から既に戦勝国側で「天皇の戦争責任論」が活発に交わされ、結果的には(既述の通り)戦後の日本統治に「天皇の役割を利用する」事となった。


国内にも「天皇退位論」はなかった訳ではない、当時、「皇太子の即位」によって「元号改元」するのが妥当と、東大の南原繁総長等が唱えていたが、周囲の強い反対で天皇自身が辞任の意思を撤回したと伝えられる。


天皇は昭和21年正月に「人間宣言」の後、神奈川県下を手始めに全国行脚で、引揚者家族を慰問したり復員軍人の慰問をしたりし、昭和29年までに[沖縄を除く]全都道府県をくまなく巡幸されたのである。


意図されたかどうかは別にして、結果的に行脚の旅は「天皇の人間味」を広く国民の間に知らしめる結果となり、「戦争責任」を曖昧にし、国内の「天皇容認論」に流れを変える契機となった。


(写真は東京・多摩・高尾山神社の拝殿)