スターリングラード攻防戦の悲惨さ

(郷里で考える「戦争世代」)



偶々11日から13日までの3日間、所要で雪国の郷里へ行き、宿泊ホテルで夜TVにスイッチを入れたらNHKBSプライムタイム「スターリングラード攻防戦―60年目の証言」の放映中であった。


第2次世界大戦でドイツ軍60万人がロシアへ攻め込み死闘の末敗退するまでを独・ロ双方の映像と証言も交え(途中休憩時間を入れて1部から3部に分けて)3時間に亘る「戦争の真実」を語ったドキュメントで、息つく間もない緊迫した映像であった、放映された内容は凡そ下記の通りであった。


1942年秋、緒戦ドイツ軍は航空力にもの言わせての爆撃と60万の大軍で優勢にロシア国内に攻め込み、モスクワに近い工場地帯スターリングラードを廃墟に近い形にまで破壊し尽くし、あわやこの戦争も雌雄を決したかに見えた。ロシア兵や一般市民にも何万と言う死傷者を出した。


スターリングラードは時のロシアの絶対独裁者スターリンの名を冠した都市だけに双方とも「譲れぬ一戦」だったのだ。戦争は膠着状態のままいよいよ11月を過ぎ冬将軍到来時期に入った。ヒトラー総統は「絶対死守せよ」と現地司令官へ命令するし、一方のロシア軍(当時はソ連軍)は100万人の援軍でドイツ軍包囲殲滅作戦で攻勢に出てきた。


包囲網が段々狭まっていく中で、ドイツ軍は本国からの補給も侭ならず、寒さと飢えで大軍も飢餓状況となる。瓦礫の中で食料も尽き、初めは馬を、次には犬を、次にネコやネズミをも食し尽くし、遂には人肉をも食する状況となる。
戦友が死ぬとその肉に殺到しそれで飢えを凌ぐ、それは正に地獄絵図の様相である。塹壕も死臭と死体の山で軍人は正気を失い次々に倒れていく。補給に飛来する飛行機に殺到する傷病兵、それを押しのけて乗ろうとする上官達、飛行機の翼や車輪にしがみ着いて離れない大勢の傷病兵を機体をゆすって振り落とし飛び去る飛行機、その飛行機も次第に少なくなり翌年1月追い詰められたドイツ軍はようやくに降伏する。


この戦いで「ドイツ軍の死者25万の死体は今もスターリングラードで埋葬もされず放置されている」とナレーションは伝えている。俘虜になった3万3000人の軍人も極寒(マイナス60度)のシベリヤ送りとなり、内半数は輸送途中で凍死したと言う。最終的に生き残ったドイツ兵はたった6千人だったのだそうだ。


生き残った人の証言「兵士や家族には全く自由はなかった」「憎しみが憎しみを生んだ」「仲間のお尻の肉を食べて生き残った」「戦場は地獄だった」「戦場では人間としての正気を失っていた」「戦地には道徳も何もない」「戦争現場は処刑場だった」等々、これが「戦争」と言うものの真相であり実態なのだ。


実は、偶々3連休初日の11日にホテルでこの映像を見たのだが、想いは数十年前の悪夢のような「戦争時代」と、一見平和に見える日常ながら「戦前回帰へ」の危うさを秘めた現実世界とが交錯し、一夜身に詰まされる思いでがしてならなかった。


昨今、しきりに「憲法改正」が話題となっている、特に憲法9条の「戦争放棄」が今正に「風前の灯」の感がある。戦後60年、戦争を知る人間も少なくなって「戦争の語り部」も居なくなりつつある。日本の戦後世代には充分に歴史も教えられず、語られず、これでは次の世代に「戦争」の実態が分る筈もない。


考えるまでもなく、ヨーロッパの人達はこのような戦争の真実を体験し、伝承して「歴史に学び」「過去を教訓として」「お互い戦争だけは避けよう」と「国境も撤廃し」、「強きは弱きを助け」「統一国家EU樹立」に向け努力しているのに、である。


(2月11日―12日富山にて)

(尚、写真は郷里の街と、車中から見た積雪の新潟中越地震震源地付近)