日本列島改造論


佐藤内閣終盤の昭和47年6月に通産大臣田中角栄氏は「日本列島改造論」を発表、当時のベストセラーを記録するものとなった。従来、表日本に偏在していた経済の恩恵を裏日本や過疎地帯にも及ぼそうと言う池田勇人の「所得倍増論」の向こうを張った意欲的「政策バラマキ」発想であった。


日本列島改造論」の国民的反応と期待を背景に、「決断と実行」を看板とした田中氏は、7月の自民党大会で福田赳夫氏を破り自民党総裁となり、7月7日念願の首相の座に就く事となった。その折の自民党総裁選挙で、未だに語り草になっている事がある。それは党内に信じられないくらいの大量のカネがばら撒かれ、それが日本の「金権政治」の幕開けとなった、と言われる。


日本列島改造論」は、裏日本始め全国に、人口30−40万人の中核都市を作り、その周辺を工業地帯として育成、全国の諸都市間を高速新幹線網で結ぼう、と言う壮大なもので、そのために膨大な公共投資が必要となるが、10年間高度成長政策を維持発展させていけば充分に可能、とした。


然し、実際はこの壮大なプランも思わぬ弊害と副産物を生む事となり、金権そのものが持つ害毒もあって、田中内閣は2年5ヶ月で退陣する事となる。