日本の総力戦


世界の大部分の人々が極東の小国日本が勝つとは思っても見なかった。過日の「トルコ旅行記」で記したようにトルコ人が「日本びいき」なのは「日露戦争で日本が思わぬ勝利した事が大きい」、と聞いた。


「戦役」そのものは1904年2月6日の「対ロシア最後通牒発令」で始まり、翌05年9月5日の「日露講和条約」(ポーツマス条約)締結で終結した。


その間1年有半の期間に陸海での会戦は仁川上陸作戦を緒戦として大小十数会戦で戦傷者38万人、死者8万7983名、戦費17億円が記録されている。


特に凄惨だったのは旅順港攻防を巡る3次の攻撃で13万人が参戦し戦死者1万5千人余、戦傷者4万4千人と、実に過半に近い人的損害を出している。


勿論勝敗を決定的にしたのは日本海海戦で当時世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊東郷平八郎率いる連合艦隊が見事に撃破した事にある。


これとても、事前の周到なロシア艦隊の航路の予測が見事に的中し、何度もの予行演習で奇策を講じて勝利したもので、幾多の僥倖も重なっての結果だった。


それ以前に、国策上から対ロシア戦を決行する迄に、日本の首脳陣の用心深いほどの周到な外交戦略があった。


英国とは事前に「日英同盟」を締結し、アメリルーズベルト大統領には、戦争終結に向けた日露間の調停をも依頼していた。