小泉政治の「詭弁性」(その一)


選挙は、「ルール」に則っていなければ正当性を主張できない、疑念が生ずる余地があれば、国家として「ファッショ体制」であり、その下では国民の信認も得られないし、社会に閉塞状況を生じる。


今の衆議院の政党別構成は昨年9月総選挙結果によっている。その折の「選挙テーマ―」は、只一点、「郵政法案」の「可」「否」であった。


その際小泉純一郎首相は、「国民に直接郵政民営化の可否を問いたい」として衆議院の解散に打って出、それを争点としたものである。


本来、一法案(郵政民営化法)が、衆議員で可決されたが、参議院で否決された場合は、当然この段階で法案は廃案である。


然し、憲法第59条②では、「衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議員で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決した時は、法律となる」とある。


更に同じ59条③で両院協議会の開催規定もあるし、④では参議院の60日間不審議は「否決と見なす」規定もある。


然し、どうしても内閣として成立させたいなら論議になった部分の「修正・削除」の上で「再提出」が筋道である、一法案が「参議院で否決」されたら「衆議員を解散する」それは憲法上にもない。


その事を前提にして昨年の郵政法案を巡る国会審議の経緯、及び解散総選挙を振り返ってみなければならない。


「反対派候補者は非公認」として対立候補を「刺客」として立て、おまけに「郵政賛成者」としてホリエモンを「若者の成功者代表」の形で看板にしてまで戦った。


衆議員選挙では「自公」が圧勝した。この事までは「既成事実」として認めるとしても、問題はその後の国会運営についてである、「郵政以外」の「法案審議」体制の「適否」についてである。


論理的にも「郵政問題」は国民の支持を得たと言えても、その後の国会の事案については全く国民の「信任を得ているとは言えない」、その事である。


「ワンイッシュ(一つの選択)」で国民に可否を求めたのなら、その事に結論が出た以上、その後には、もう「不適格」なのだ、それが民主主義の「常識」だろう。



(春来る―北陸から日本アルプスを望む)