「アメリカCIA」の関与


ところで、つい先日、本年7月20日付け新聞報道(日経・朝日)によれば、「米中央情報局(CIA)が、50年代から60年代にかけ、日本の「複数の親米的、保守的な政治家」に資金援助や選挙支援する一方、左派勢力の分断を狙った工作を実施していた」と公式に認めた。


アメリカでは、国家の秘密文書も30年を経過すれば、原則的には公開される決まりとなっている。アメリカでは外交上の機密事項は開示されるのだが、日本にはその決まりがない、従って外務省・宮内庁関係の対外折衝等は未だに秘密のベールに包まれている。


50‐60年代と言えば吉田内閣―鳩山内閣―岸内閣時代に当る、日本の戦後政治体制を巡って保守と革新勢力が夫々主義主張を述べ合ってせめぎ合っていた時代だった。


時の首相は就任4年目の「昭和の妖怪」と称された岸信介氏が就いていた、東条英機等7人の絞首刑執行された23年12月23日、その翌日24日に児玉誉士夫笹川良一と共に釈放されたのがA級戦犯容疑者、時の首相は岸信介氏だった。


日米安保改定は、日本の占領状態の固定化」に連なると主張し反対する社会党・市民の猛反対に会い、国会周辺には連日・連夜、空前絶後の大デモの波が押し寄せ、さながら革命前夜の様相さえあった。


一方、岸政権は警察権力を総動員し、更に右翼闇勢力の出動をも求めたと言う。右翼勢力はデモ隊・民衆に紛れ込んで大衆を挑発し、その結果デモ隊・警察双方に多大の死傷者を出し、その後の思想弾圧の切っ掛けとなった、この事は日本の中に後々大きな亀裂と「しこり」を残す事となったように思う。


そのさきがけが浅沼委員長の刺殺事件だった、安保条約が自然成立した4ヵ月後に革新勢力のホープだった社会党浅沼稲次郎氏が日比谷公会堂で演説中に、警備も万全、万人注視の中で刺殺されるという事件が起きた。


犯人は右翼の青年だったが、後日彼も護送中に刺殺されてしまい、事件の真相は闇に葬られ、未だに明らかにはなっていない、暗い「一世を画する闇の事件」だった。


又、岸首相は安保成立直後、暴漢に襲われて危うく一命を取り留める事件が起きた、当時言われたことは、この事件は安保反対勢力に対峙させるべく右翼勢力の応援を乞い、その「落とし前」が付いていなかったからだと聞く。