東京の変貌


銀行の帰路日本橋から15番の都電を利用して早稲田に通った、神田YMCAの前を通り飯田橋面影橋等を通り40分前後で早稲田大学に到着したものだ。その15番の都電の延長線上に三ノ輪橋までの路線のみが今残っている唯一の都電である。


さて、最初の単身時代は30―40人の寮だった、新宿に近い寮の周辺でさえも表から一歩中に入るとまだ戦災のくすぶっている感じで、今の京王新線は当時は幅10メートルほどの川だった、それをを掘り下げて地下鉄線としたものだがその川べりを毎日歩いたものだった。


甲州街道左側にそんな大きくない「文化服装学院」があったのが、今は実に巨大な校舎で東京都庁にも負けないくらいだ、その服装学院の裏手に独身寮があったのだが淋しい事にマンション開発会社に買われて今は10数階の瀟洒なマンションに変っていた。


上京当時は新宿西口には「屋台」や「テキヤ」「古着屋」等がが軒を並べて威勢良く客を呼び込み喧騒と異臭にまみれて、それでもとてつもなく活気がみなぎっていた。当時は一人残らず誰しも生き伸びるのに懸命だった。


新宿には大きなガスタンク以外には大きな建物はなく、都内の何処からも富士山が姿を見せてくれたものだ、西口入り口まで甲州街道をコロコロとグリーン色の京王電車が乗り入れ乗降の段差も板張りだった。


敗戦直後はビルと言えるってモノは少なかったのが今は全く様変わりで大小さまざまなビルが立ち並び各街道中央には高速道路が不恰好な橋げたを延々とくねらせ周辺に排気ガスを吐き出し住民汚染の役割を果たしている。


昔の新宿西口には大きな浄水場があったし、直径20―30メーターのガスタンクがあったものだが今は高層ビル街と変ってしまって富士山を望むべくもない。妻とは時折新宿に出て当時の事を話題にするが別世界の話のように聞こえるようだ。


(写真は淋しいお米屋さん閉店広告=東京世田谷・赤堤にて)