妻と子供達の苦労


妻からは自然に当時の苦労話が出てきた。上の娘が下高井戸小学校に転校し、下の長男は近くの幼稚園に入る事になったのだが行きたがらず毎朝泣くのを無理やり手を引いて行ったと云う。それまでに既に何回も転校を繰り返していて折角仲良しが出来た友達と引き離されたのだから余程悲しい想いをしたのだろう。


自分の勤務は池袋、それまで北陸二ヶ店、名古屋で一ヶ店と勤務先が変り、父兄会等にも一度も出た事もなかった。まして池袋時代は朝食もそこそこ、土日もなく、その日のうちに帰った記憶もない。だからどうして子供達を育ってくれたものか、今でもたまに見る夢の中の子供達もせいぜいが「ヨチヨチ歩き」で止っている。


その頃だったか「転勤で各地にたくさん友達が出来てかえって良いじゃーないか、転勤も悪くないぞ」と云ったことがあった、あの時子供達は部屋に閉じこもり顔も見せなかった事もあったっけ。それを妻が何とかなだめるのに苦労をした、とのこと。街中の公園ベンチで暫し妻の想い出話に耳を傾けつつ今更ながら苦労の一端に思いを馳せた。



(写真は淋しいお米屋さん閉店広告=東京世田谷・赤堤にて)