2005-03-01から1ヶ月間の記事一覧

「将の能にして君の御(ぎょ)せざるものは勝つ」

「3月事件」「10月事件」の翌年昭和7年5月、「5・15事件」が起きたのである。首相官邸に犬養首相を襲い射殺した。

「上下欲(思い)を同じうするものは勝つ」

何時の時代でも、そのような時に愛国的国粋主義主義者が声高に叫んだり、外交面に強硬姿勢が出たり、軍の政治への関与を強める結果をも招く。軍の成果が「華々」しければ「華々しいほど」、熱狂的世論なるものが、時の政治の慎重論を押し潰し、転換させるま…

「兵は勝ちを貴び、久しきを貴ばず」

(戦争は勝つことが重要で長く闘う事が重要なのではない) 日本が「昭和」を「戦争の時代」から幕開けし、「自殺的破滅」に向ったのには、先ず「民の貧しさ」があった。 世界的恐慌と、異常気象で不況と凶作が続いた。その社会的影響は全体に等しく同程度で…

「兵は勝つを貴び久きを貴ばず」

当時の日本人には中国人への云われなき軽侮感があった、これは先の日清戦当時の中国兵の敗北が余りにも惨めだった印象のなせる所為だったが、日本の侵攻が民族主義復活の契機となり侮りがたくなったのである。戦状が苦戦となるに従い、順次兵力の「逐次投入…

「主何れか道ある、将何れか能ある、天地何れか得たる、法令何れか行わる、兵衆何れが強き、士卒何れか練れたる、賞罰何れか明らかなる」

【上記に今回引用させて頂いた「孫子の兵法」(見出し部分)は、今から2500年前(BC515−496)、中国春秋時代の呉の将軍「孫武」が著した兵法書からです。】 (写真は「ねむの木の庭」、旧正田家跡地を皇后陛下の意を享けて、品川区にて公園として草花を育…

「勢いとは利に因りて権を制するなり」

中国の国連への提訴によって「リットン調査団」が現地及び両国から状況を聴取し、国連から「日本に非あり」と断定された。日本はこの長引く戦争の収拾に国際社会と対峙し、「国際連盟」からも脱退、孤立の道を歩んで行く事となった。

「凡そ兵を用ちうるの法、日に千金を費やして然る後に十万の師挙がる」

停戦交渉は、事件発生半年後の1032年3月3日には両軍間で一旦「停戦協定」が成立している、1933年5月31日には中国南北で広範囲の「非武装地帯」を設置し「停戦協定も締結したのである。然し停戦期間も長くは続かなかった。執拗なる反日民族運動に耐え切れず、…

「勝つも久しければ即ち兵を鈍らし鋭を挫く。久しく師を曝せば即ち国用足らず」

関東軍はこの事件を契機として、中国東北部(満州)の占領を画策した。出先の先鋭化した軍事行動に歯止めを掛けるべく政府は苦悩した、国際的圧力が強まる中、勿論、「兵を引く」機会は何度もあった。事件発生6日後(9月24日)政府は事件の「不拡大方針」声…

「将、吾が計を聞かざるときは、之を用うれば必ず敗る。之を去らん」

事件発生で軍首脳、政府は実に「困惑」した。が、軍法会議にもかけずに「黙認」して、天皇の裁可は事実上「事後扱い」とした。然しこの「統帥権干犯事件」を「うやむやに処理した」事が、爾後に、現地軍の相次ぐ「独断専行」の「先例」となり積み重なり、日…

「法とは曲制、官道、主用なり」

(戦時法では組織・規律・装備の事、これら軍事全般を取り決めておくべきものである) 本事件の中国への「越境」は、直接関係のない朝鮮軍の司令官が、彼の独断で命令した事である。勿論、本国軍首脳・政府にも許可を得ていないし、ましてや「国境を越えて外…

「将とは、智・信・仁・勇・厳なり」

(指導者として具備すべきは、冷静な智力、信頼、思いやり、勇気、厳格さである) 戦前の日本でも「戦争開始」については実に厳格で慎重を期していたのである。 明治憲法のもと、日本の兵は「統帥権」を有する唯一「天皇」の命令によってのみ戦争行為に入れ…

「兵は国の大事、死生の地、存亡の道なり、察せざるべからず」

(戦争は国の一大事、国民の生死、国家の存亡に関わる重大事だから、充分に検討した結果でなければならない) 日中戦争は「満州事件」から端を発し、その満州事変は、奉天郊外満鉄線路「柳条湖鉄橋爆破」から始った。事件直後間髪いれず「中国側の仕業」、と…

「勝ち馬に乗る」

緒戦で関東軍が快進撃を続け、その事が政府の慎重論をひるませて、結果的に軍の暴走を黙認し加速させた。10年後、対米戦争に突き進んだのも、欧州戦線で「盟友ドイツ」が終始優勢で、「対英」「対ロ」勝利が目の前、と思い込んだ「勝ち馬に乗り遅れるな」精…

「付和雷同」

一方、日本国内では「軍の情報」にのせられて、新聞ラジオが「大戦果」として報じ、満州事件の「首謀者」が「国民的英雄」と、もてはやされた。他国への侵略行為に拍手喝采して狂喜したのは「多くの国民大衆」であった。

「欲に頂きなし」

翌年「上海事件」(日蓮宗僧が殺害された、が、日本陸軍の謀略説あり)が起き、政府の「不拡大」方針にもかかわらず、戦線は中国全土に拡大した。 国際都市上海での事件発生は「日支問題」は一挙に「国際問題」となり「国際連盟」から「リットン調査団」派遣…

「無理が通れば道理が引っ込む」

「満州事変(柳条湖事件)」が関東軍の独断で実行され、それを軍中央・及び政府が追認した事が、その後の軍部の増長を招き、且つ軍内部に「下克上」の風潮を生んだ(5・15事件、2・26事件は、それの延長線上で起きた)。関東軍参謀(板垣・石原)の謀議で…

「ボタンの掛け違い」

日本は大正期以降、中国「満州」へ積極的に移民政策で進出を計った。「二・三男対策」として満州行きが奨励もされた。日本なりに現地のインフラにも力を尽くし、「満鉄」等はその一例だった、民間の移住者も将来の「理想郷建設」を夢見ていた。その事の是非…

「他所の花は好く見える」

従って、狭い島国日本にとって、隣国、中国の東北部(満州)は、寒さも厳しかったが当時は殆ど「荒野」で、手入れ次第では「未来の別天地」に見えた。(当時中国は内乱続き、政権が不安定で欧米植民地の格好の草刈場になっていた。)

「貧乏に棒なし」

更にもう少し遡れば、中国問題は、根本的には当時の日本の「貧困」と「人口問題」だったと思っている。当時、食べ物は米食主体で、「食うのさえも事欠く」家庭が多かった。まして天候次第で「凶作」が続くと、実に悲惨な状況だった。又、10年で倍増した当時…

「最初が肝心」

先ず、日米戦争の遠因は「日中戦争」にあり、更に遡れば昭和6年の「満州事変」に行き着く。日米戦争は日本が仕掛けて始った事になっているが、それまでの「日米」・「日英」共に大きな摩擦もなかった。(勿論、日米戦争は、米側が日本から発砲するように追…

「後悔先に立たず」

「昭和の戦争」時代を振り返りつつ、確かに先の大戦で、無念の思いで亡くなった方々も多いし、蒙った被害も大きかった。然し、その中には様々な教訓と、多くの将来への示唆があるように思う。

庶民の生活

一般庶民の方はどうだったのか、昭和6年以来、約4年間に亘って東北・北海道地方は冷害で凶作続き、「娘を売りに出す」と言った悲惨な状況が続いた、昭和7年には恐慌とも重なり、欠食児童が東北北海道主体に20万人を突破している。 昭和9年の凶作では欠食児…

強化された軍部支配体制

言論統制下で、事件の実態も詳らかにされず、短期で収拾が計られたことで軍への批判はさほどでもなくこの件は収拾された。然し軍部はこれを機に「粛軍」の名のもとに大規模な人事異動を行った。主導権を握った「統制派」によって「皇道派」は排除され、統制…

軍内部のクーデター

2・26事件は、軍部内の「皇道派」対「統制派」の人事を巡る主導権争い、と言った類のものであった。軍首脳人事を巡り派閥間抗争が絶えず、多分に軍幹部の人事上の確執が真因である。(支持する親分の為に純真な皇道派将校が派閥クーデターを試みた)と考…

「2・26事件」

このような社会状況の中で昭和11年2月26日、「2・26事件」が起きた。当日、東京は2月の大雪で、終日雪の降り続く日であった。 事件は「歩兵第1・3連隊」主体の青年将校が、兵1400人を率いて首相官邸・陸相官邸・警視庁などを襲い、蔵相高橋是清・内大臣斎藤…

言論・出版統制強化

前後して、国内では報道・出版・思想までが弾圧・統制が強化された。既に明治政府で新聞・出版物の無許可発行は禁止されていて(明治元年)、その後出版法・新聞紙法の条例は数次の改正を経て強化・完成されてきていた。 満州事変後は、既に完成されていた法…

国際連盟脱退

「5・15」事件が起きた昭和7年、犬飼首相の後を継ぐ事となったのは現職の「海軍大将、斎藤実氏」で、従って戦前の日本の政党政治はこの年で終わりを遂げ、以降,日本は実質的に軍事政権になった、と言って良い。 この年、日本にとって重要な事がもう一つあっ…

5・15事件と「世論」

満州事変勃発の翌年、1932年5月15日早朝、現役陸海軍将校が首相官邸を襲撃、犬飼首相を射殺した事件は社会を震撼させた。当時の新聞各紙は軍人の政治への介入を非難し弾劾する記事で埋まった。然し時日の経過と共に空気は急速に変化する、事件後1年経って陸…

満州事変に対する世論

満州事変以前の国内では満蒙問題への関心は一般的には低調であった、然し予ねて満州での民族主義運動の高まり、満州各地での反日運動は在満日本人・関東軍陸軍中枢部では頭痛の種であった。そこで関東軍による極秘の柳条湖鉄橋爆破計画が実行されたのである…

「世論」の形成

右翼の跳梁、軍部の跋扈には、この背景と、時の政党政治の腐敗・混乱や、社会的民衆の不満、それを煽る所謂「マスコミ」の存在も無視できない。日本が「破局」に向う時、どのような情宣があり、「世論」を誘導したのかをここで検証しておきたい。