2005-03-01から1ヶ月間の記事一覧

野村吉三郎元駐米大使の人物像

和歌山県出身海軍兵学校卒、海軍大将、米大使館付武官の時ルーズベルトとも親交あり、ワシントン会議では全権委員、上海のテロで右眼を失う、37年現役退役後、学習院院長。駐米大使を及川海軍大臣から「余人に換え難し」、と要請されたが固持し続けた。その…

松岡洋石元外相の人物像

開戦まで対米強硬派で「日独伊三国同盟」推進者、外務大臣だった松岡洋石とは如何なる人物で、どのような考えの持ち主だったのだろうか。 松岡洋右氏は明治26年、13歳の時、移民船で米ポートランドに渡り、家事手伝いや皿洗いをしながら、苦学の末にオレゴン…

日本の政策決定過程の原点

上記の「開戦決定の重臣会議」に、日本の各種政策決定過程の原点が見えるように思える。「軍部」が「官僚」に替わっただけで、この方式は敗戦後の今も、そして現在も、「官僚組織」が原案を作り、「政府」が追認し、「国の政策」となっていく・・・。

開戦決定の瞬間

昭和16年11月29日、宮中にて「御前会議」が開かれ、天皇の前で対米戦争が「国家」として正式に決定された。 出席者は歴代総理8名、枢府議長、政府側から大本営政府連絡会議メンバーの首相・陸海軍両大臣・蔵相・外相(東郷)・企画院総裁・参謀総長・海軍司…

「兵は国の大事、死生の地、存亡の道なり、察せざるべからず」

(戦争は国の一大事、国民の生死、国家の存亡に関わる重大事だから、慎重を期すべきである。)(写真は東京・日比谷、元GHQがあった第一生命新ビル)

情報戦争

又、日本軍「真珠湾奇襲」翌日、議会でのルーズベルト大統領の「戦争状態宣言要請」演説の中で、日本の最後通牒の内容、到着時間をアメリカは「3時間55分前に知っていた事実」を自ら露呈している、と実証している。が、所詮「情報戦争」とはそんなものなのだ…

機密物焼却の駐米大使館

ところで、日本の外務省は「日米戦不可避」との判断から、11月19日至急電報で駐米大使館に次のような指示を出している。「非常事態における国際通信の途絶した際の情報手段」として、日本の対外国向け短波ラジオ放送を通してのニュースの際、指示をニュース…

遅きに失した「近衛政府」

大本営は、6月6日に「対南方施策要綱」を決め、仏印、タイに軍事基地の設営を企図し、これを基に6月25日に「大本営政府連絡懇談会」を開催、「南方施策促進に関する件」を成案、7月28日から南部仏印への進駐を開始したのである。 日本軍の仏印進駐開始の情報…

「日米諒解案」挫折

「日米諒解案」は野村吉三郎大使の米側と必死の尽力で折衝し纏められたものだったが松岡の容れるところとはならなかった、外務大臣の松岡が反対したのである。松岡反対の理由はその時点では明確には言っていないが、「自分自身で自らワシントンへ行きルーズ…

「日米諒解案」の内容

野村大使は昭和16年1月23日東京を出発し、2月11日にワシントンに到着した、直ぐに大統領に「信任状」を提出し、以降、何度も国務省に足を運び「ハル国務長官」と「こじれ切った」日米関係打開に奮迅努力する。日米間の推移を心配するカソリック神父等の助力…

「切り札」登場

昭和15年9月に陸軍は北仏印へ派兵、更に「日独伊三国同盟」締結(同9月27日)で、日米関係は最悪状況になった。その時の模様をワシントン大使館大使補佐官が「日米交渉秘録」にまとめている。緊迫した日米交渉を読み解くものとして抜粋させて頂く。横山一郎…

日米緊迫

通商条約破棄は宣戦布告に次ぐ強硬手段で、石油を殆どアメリカからの輸入に頼っていた日本にとっては致命傷とも言えるものだった。当時、アメリカは年間2億トンの生産量で、世界最大の産油国、その当時の日本の産出は年30トンと、殆どゼロに近いものであった…

ドイツ軍優勢な欧州戦線

欧州戦線はドイツの優勢さは歴然とし、同時にイギリス本土も危うくなってきた。急遽イギリスチャーチル首相はアメリカに救援の申し出をし、「チャーチル・ルーズベルト艦上会談」がもたれた。ここでアメリカがイギリスを本格的に支援する事を決め、「米が民…

「卒強くして、吏弱きを弛と云う」

(部下が有能なのに指揮官の能力不足で軍規の緩みが生じてしまう) 1939年9月、ドイツ軍のポーランド進出で第二次世界大戦が勃発するのだが、明けて1940年(昭和15年)破竹の勢いのドイツ軍は、ノルウエー・デンマーク・ベルギー・ルクセンブルグから北フラ…

「得るに非(あら)ざれば、用いず」

(勝つ見込みがない限り、軍事力を行使してはならない) 天皇は、後任「総理大臣」に陸軍大臣「東条英機」を任命した。戦争へ突っ走る「軍を抑える」には「毒を制するに毒」との考えで、「東條でしか出来得ない」、と考えたからに相違ない。(その折の閣僚名…

「危うきに非(あら)ざれば戦わず」

(戦争は最後の最後の手段である) 日本が実質的に「対アメリカ戦」を決定するのは昭和16年7月2日の「第2次近衛内閣」での御前会議、「情勢の推移に伴う帝國国策遂行要綱原案」承認の瞬間であった。然し、実際の近衛文麿首相の「本心」は、ここで戦争への…

「尽(ことごと)く、用兵の害を知らざれば、尽(ことごと)く、用兵の利をも知ること能(あた)わざるなり」

(戦争する事によって生ずる弊害を知らない者は、戦争で一体、何が得られるのか、その「損得勘定」が出来ていない、の意) (写真は、皇居前広場から「坂下門」方面を望む)

日本攻撃隊の損害

航空機29機 搭乗員15名 小型潜水艦(特殊潜航艇)5隻 同乗員戦死者9名 (他に俘虜1名) (当時は特殊潜航艇の9名の戦死者は「9軍神」として大々的に発表され「国民的英雄」となった。尚、1名は攻撃中にアメリカ側に俘虜となったが、この事は戦時中公表され…

アメリカ側の実損害(戦後発表)

(戦艦)沈没3、転覆1、座礁1、中破3 (巡洋艦)大破2、中破1、(駆逐艦)大破1 (敷設艦)大破1、(工作艦)大破1 (施設艦)沈没1 (水上機母艦)中破1 (標的艦)転覆1 (航空兵力)航空機475機 (陸軍140、海軍120、その他使用不能215) (…

大本営発表の真珠湾攻撃戦果

(開戦後間もなく発表されたもの)(撃沈) 戦艦5、巡洋艦2、給油戦 (大破) 戦艦3、巡洋艦2、駆逐艦2 (中破) 戦艦1、巡洋艦 (破壊・撃墜) (航空機) 約450機 撃墜14機 他に格納庫 16棟炎上 2棟破壊

緒戦の戦果

開戦までの「日米交渉」、その間の日本政府とアメリカとの緊迫した状況、それを接点で対応していたワシントンの日本大使館の動き、参謀本部、軍首脳、陸軍、海軍夫々の役割と考え方等を「昭和史」「太平洋戦争史」や、当事者の「回想記」等で改めて調べ直し…

「善く戦う者は、先ず勝つ可(べ)からざるをなし、以て敵の勝つ可きを待つ」

(名将は、先ず負けない体制を整えた上で、必勝のチャンスを待つ)

戦争時代を振り返り⑤ 続 真珠湾攻撃

失態

2番目の「落とし穴」はこの奇襲攻撃でアメリカの日本に対する「対抗心」を一挙に盛り上げ「挙国一致体制を組ませたことである。これを更に決定的にしたことが3番目の日本側の「落とし穴」だった。予め手渡されている筈の「対米宣戦布告書」が、駐米大使館…

「彼を知り己を知れば、百戦して殆(あや)うからず」

(敵の実情を知って、自分自身をわきまえて闘えば、何度闘っても危険はない) 奇襲を遡る事12日前の11月26日に、千島択捉島沖に密かに集結した日本海軍の連合艦隊及び南雲大将指揮下の「航空艦隊」は「無線を封鎖」してハワイに向け航海、予定通りに無事作戦…

「戦い勝ちて、天下善なりと言うは、善の善なるものに非ざるなり」

(世間から誉めそやされる派手な勝ち方は、優れたやり方とは云えない) 「大勝利」に、どのような「落とし穴」があったのか。先ずハワイで奇襲当日、攻撃目標の米航空母艦が、総て出払っていて、撃ち損じてしまったのである。半年後に後日「天下分け目の海戦…

「兵は詭道なり」

(戦争は「心理的駆け引きで、先ず不意を突いて攻めて、我が軍の優勢化を図る」ことが大切である) 「孫子の兵法」を基本通りに実行し、緒戦に大勝利したのであった。日本の特殊潜航艇及び空母から発進の183機の航空機による果敢な攻撃で、米太平洋艦隊の主…

真珠湾奇襲

アメリカ・ハワイ島「真珠湾」の米太平洋艦隊への日本軍の奇襲攻撃で「太平洋戦争」が始った。昭和16年12月8日午前3時20分、(ハワイ時間は、7日午後1時20分),湾内には7隻の敵連合艦隊の主力戦艦を始めとした艦隊がひっそりと停泊していた。

「善(よ)く兵を用いる者は、道を修めて法を保つ」

然し、問題はこれらの計画に軍首脳が半ば公然と参画していたこと、及び首謀者が、その後何の処分も受けなかった、事である。その事で、その後の軍の統制が力を失い「下克上」の風潮を一般化した、と言われる。 軍は「命令」社会であって「上官の命令は絶対」…

「尽く(ことごとく)用兵の害を知らざれば、尽く(ことごとく)用兵の利をも知ること能(あたわ)ざるなり」