遅きに失した「近衛政府」


大本営は、6月6日に「対南方施策要綱」を決め、仏印、タイに軍事基地の設営を企図し、これを基に6月25日に「大本営政府連絡懇談会」を開催、「南方施策促進に関する件」を成案、7月28日から南部仏印への進駐を開始したのである。


日本軍の仏印進駐開始の情報にアメリカの対日態度が一転硬化した。米政府は7月24日、「日本軍の仏印進駐は近隣国征服の為の基地獲得の目的がある」と声明を出し、25日在米資産の凍結を決め、即、翌日から実施すると発表した。英国・カナダも同調した。更に米政府は8月1日「包括的対日貿易制限措置」によって「石油輸出の禁止」をも決めたのである。


7月に入り近衛は遅まきながらこのような米国の硬化姿勢に、松岡を更迭し、日米関係の転換を計った。然しこれは余りにも遅きに失した、と言える。既にルーズベルトは24日の時点で野村大使に「仏印への出兵は日米関係の破局を招く、と警告していたのである。第三次近衛内閣発足の翌日の事である、近衛に再考を促したものと受け取らざるを得ない。


然し、近衛によっても軍部の進軍を止めることは出来なかった。その間、近衛はルーズベルトとの直接会談を申し入れ、一旦はジュノーで会う事までは決まったものの、「細部の項目まで合意していない」とのアメリカ側の理由からこれも頓挫してしまった。


10月16日、第三次近衛内閣は総辞職、東條に引き継がれ、以降日本は破局への道を「まっしぐら」となってしまった。