「日米諒解案」の内容


野村大使は昭和16年1月23日東京を出発し、2月11日にワシントンに到着した、直ぐに大統領に「信任状」を提出し、以降、何度も国務省に足を運び「ハル国務長官」と「こじれ切った」日米関係打開に奮迅努力する。日米間の推移を心配するカソリック神父等の助力もあって4月16日になって「日米了解案」が出来上がり「ハル長官もこれでテーブルにつく」となった。野村大使から早速本国に「諒解案承認」の指示を仰いだのである。(4月16日)


8項目に亘るこの内容は要約すると下記の通りとなる。(括弧内要点)

① 両国の国際観・国家観の尊重(これには日本の「八紘一宇」も含む)
② 欧州戦争に対する双方の態度(三国同盟は「攻撃された場合のみ発動」)
支那事変に対する日米関係(米大統領蒋政権に和平勧告する<内容、非賠償・満州国の独立承認・中国から撤兵等8条件>)
④ 太平洋に於ける海空兵力海運関係(配置は相互不脅威・儀礼相互訪問交換・米希望の日本船舶の航行)
⑤ 通商及び金融提携(日米通商協定の復活・必要物資の供給保証・信用供与)
⑥ 南西太平洋の日米経済活動(石油・ゴム等の供給及び米国の協力確保)
⑦ 太平洋の政治安定方針(比島の独立日米保証・移民の無差別待遇)
⑧ 日米会談(ルーズベルト大統領・近衛首相とのホノルル会談を本了解成立後出来るだけ早期に実現する)


以上は、殆ど日本の主張・趣旨に沿ったもので、「戦争回避」のためにアメリカも最大限譲歩したものであった。野村大使は本国の指示を毎日首を長くして待っていた


4月22日松岡外務大臣ドイツのヒットラー・イタリヤムッソリニ―との会談を終えて帰国、「日米諒解案報告」を受けるや「2週間考える」と言ったまま伊豆長岡に発ち、宿に篭ってしまった。その2週間の間に、事態は急変するのだ。