2005-03-22から1日間の記事一覧

「日米諒解案」の内容

野村大使は昭和16年1月23日東京を出発し、2月11日にワシントンに到着した、直ぐに大統領に「信任状」を提出し、以降、何度も国務省に足を運び「ハル国務長官」と「こじれ切った」日米関係打開に奮迅努力する。日米間の推移を心配するカソリック神父等の助力…

「切り札」登場

昭和15年9月に陸軍は北仏印へ派兵、更に「日独伊三国同盟」締結(同9月27日)で、日米関係は最悪状況になった。その時の模様をワシントン大使館大使補佐官が「日米交渉秘録」にまとめている。緊迫した日米交渉を読み解くものとして抜粋させて頂く。横山一郎…

日米緊迫

通商条約破棄は宣戦布告に次ぐ強硬手段で、石油を殆どアメリカからの輸入に頼っていた日本にとっては致命傷とも言えるものだった。当時、アメリカは年間2億トンの生産量で、世界最大の産油国、その当時の日本の産出は年30トンと、殆どゼロに近いものであった…

ドイツ軍優勢な欧州戦線

欧州戦線はドイツの優勢さは歴然とし、同時にイギリス本土も危うくなってきた。急遽イギリスチャーチル首相はアメリカに救援の申し出をし、「チャーチル・ルーズベルト艦上会談」がもたれた。ここでアメリカがイギリスを本格的に支援する事を決め、「米が民…

「卒強くして、吏弱きを弛と云う」

(部下が有能なのに指揮官の能力不足で軍規の緩みが生じてしまう) 1939年9月、ドイツ軍のポーランド進出で第二次世界大戦が勃発するのだが、明けて1940年(昭和15年)破竹の勢いのドイツ軍は、ノルウエー・デンマーク・ベルギー・ルクセンブルグから北フラ…