野村吉三郎元駐米大使の人物像


和歌山県出身海軍兵学校卒、海軍大将、米大使館付武官の時ルーズベルトとも親交あり、ワシントン会議では全権委員、上海のテロで右眼を失う、37年現役退役後、学習院院長。駐米大使を及川海軍大臣から「余人に換え難し」、と要請されたが固持し続けた。その理由は、「片手で棍棒を持ち、片手に大福餅を持ったような対米外交は、自分のような無骨者の出る幕でない、万一対米交渉が不成立では腹掻き切っても国に迷惑が残る」だった。(森山幸平著、「秘話で読む太平洋戦争」河出書房新社刊より)、既に松岡外相の下では打開困難と考えたのではあるまいか。


実は、私事になるが、ある事情で傷心の折、気分転換にツアーの一組として妻と訪米した事がある(7年前の98年4月)、初訪米だったが、その折に全く偶然の事だがY氏と知り合った。敗戦直後、野村氏が駐米大使の折の知人に「お詫び行脚」され、その案内をしたのが日系2世のY氏親子だった、Y氏の父は日本人会の名士で米国の各界に知人も多くその時に米政府要人にも一緒にお会いされたそうだ。


Y氏親子は数日間野村さんに随行し、「あんな立派な人物が日本に居たのに、何であの無謀な戦争に突入したのか、不思議でたまらなかった」、とY氏が「しみじみ」と述懐されたのが昨日の事のように思い出される。勿論戦争で氏始め日系人は「収容所」に入れられたのだそうだ。野村氏とは勿論直接の面識はないが、内外共に大変信頼の厚い方である。