「得るに非(あら)ざれば、用いず」

(勝つ見込みがない限り、軍事力を行使してはならない)


天皇は、後任「総理大臣」に陸軍大臣東条英機」を任命した。戦争へ突っ走る「軍を抑える」には「毒を制するに毒」との考えで、「東條でしか出来得ない」、と考えたからに相違ない。(その折の閣僚名簿を見ると、岸信介が商工大臣である、岸は「満州の三スケ」の一人、戦後A級戦犯となるも、巣鴨拘置所から(占領軍とどんな取引をしたのか)放免され、敗戦後12年目の昭和32年「総理」となる。尚、佐藤栄作実弟安倍晋三は岸の孫に当る)、然し東條内閣は天皇に期待に反し軍の圧力を抑えるよりも、むしろ勇ましい軍の先頭に立ってしまった。


「東條内閣」では、11月5日の御前会議で「帝國国策遂行計画大綱要領」を決定、11月26日「アメリカの最後通牒」と言われる「ハルノート」手交され、12月1日の御前会議で「開戦決定」、12月8日の開戦日を迎えたのである。


一体、その間どのような対米交渉がなされていたのか、日本大使館はどのような動きをしていたのか、その事は明日見る事としたい。