「危うきに非(あら)ざれば戦わず」

okamakoto2005-03-21

(戦争は最後の最後の手段である)


日本が実質的に「対アメリカ戦」を決定するのは昭和16年7月2日の「第2次近衛内閣」での御前会議、「情勢の推移に伴う帝國国策遂行要綱原案」承認の瞬間であった。然し、実際の近衛文麿首相の「本心」は、ここで戦争への流れを、何とか「土壇場」で止めたかったのだ。16日に「強硬派」外務大臣松岡洋右外相」を更迭する「内閣総辞職」をしている、実質外相を「罷免」したのである。


松岡洋右氏に就いては、この後も又詳しく述べねばならないと思うが、若い頃にアメリカでの生活を経験して、彼自身で、「自分こそが最も知米人」と自負していた外交官出身の政治家である。近衛や天皇も松岡の「知米」の経歴に過大な期待を抱いていた、ように思う。


松岡外相は、この時から8年前に、国際連盟総会で「以後、日本は国際連盟には協力せず」と、決然、国連から脱退した折の「日本代表」である。第二次近衛内閣で初めて閣僚入りを果たし、僅か1年間の在任中に、「仏印進駐の決定」、ドイツ・イタリヤとの「日独伊三国同盟」の推進・締結、と言う「歴史的事業」を推進した人物である。


近衛は、天皇から3度目の組閣を命じられ、18日に新任外相にそれまで商工大臣だった豊田貞次郎氏を充て「第三次近衛内閣」を発足させる(陸軍大臣には東条英機大将が就いている)。近衛第三次内閣は僅か3ヶ月で内閣を辞職している。アメリカとの和平交渉が「絶望的」になった責任をとった形である。