「彼を知り己を知れば、百戦して殆(あや)うからず」

(敵の実情を知って、自分自身をわきまえて闘えば、何度闘っても危険はない)


奇襲を遡る事12日前の11月26日に、千島択捉島沖に密かに集結した日本海軍の連合艦隊及び南雲大将指揮下の「航空艦隊」は「無線を封鎖」してハワイに向け航海、予定通りに無事作戦を成し遂げたのであった(幸い日本側の損害は殆どなかった)。


一方、陸軍は寺内寿一南方軍総司令官の下、石油・ゴム等の「戦略資源確保」が主目的として、両方面に分かれ「資源地帯確保」を目指した。西回り攻撃隊は、マレー半島北部上陸、タイへ進軍した、ビルマ・ボルネオ・シンガポール占領を目指していた。東回り部隊はフイリッピン・グアム・ボルネオ占領が任務で、夫々日本時間午前2時を期して、一斉に作戦行動開始し、予期以上の速度と成果で順調に進軍を続けた。


ラジオから流れた朝の開戦の「臨時ニュース」(3月1日の日記)で、国民誰しも不安感がよぎったものの、その後相次いで発表された各地での大戦果の「臨時ニュース」覗く方に、国民総てが安堵し、歓喜し、全国各地で「提灯行列」までしたものだった。