トルコ紀行(5)親日的な国−①

okamakoto2005-01-06

トルコへ行ってみてこの国の日本に対する理解と日本人に対する好意は「格別だ」との印象を持った。 これは行かれた方ならどなたもお持ちになるのではあるまいか。


この事は単に「日本人は沢山買い物をしてくれるから」とか「金払いが良いから」、とか言う事だけではないように思える。勿論トルコが観光立国である以上「気前良く買い物をしてくれるお客さん」や、「お客さんの国」を大事にするのは当然の事だろう。その事では事実、今回のツアー旅行でも絨毯織り場の工場で「シルク織りの高級絨毯」を買った方も何人もいらっしゃったし、「皮革店」や「トルコ石実演販売店」で高価な装飾品を買った方も多かったようだ。 又、高級宝飾品店が列をなすイスタンブール、グランドバザールでショッピングに余念のない日本のご婦人も多かった。然しトルコが親日的なのはその事だけでもなさそうなのである。この事を考える上でここで過去のこの国と日本との関わり合いを振り返ってみる事が必要だと思う。(写真はトルコ絨毯店展示即売風景)


1880年代のトルコは「オスマン帝国」華やかな頃で、明治天皇小松宮ご夫妻を親善大使として1886年(明治19年)遣わされ、同国で盛大な歓迎を受けた。一方、皇帝はその答礼としてトルコ使節団の日本派遣を命じ、当時の最新式フリゲート艦「エルトウルル号」での派遣が決まり、1890年6月「オスマン・パジャ提督以下580名の乗員が横浜港に着き、これまた盛大な日本の歓迎を受け明治天皇とも拝謁を無事終えた。 処がこの艦は不幸な事に、帰途和歌山県沖にて折からの台風に遭遇して沈没し、その時わずかに生存者69名のみ、提督艦長以下514名が海の藻屑と消えると言う大惨事遭遇となったのである。この際、和歌山県大島村の村長以下村人総出の決死の救出活動・水死者の必死の捜索活動、手厚い慰霊の模様等は生存者によって帰国後細大漏らさず本国に報告され、トルコ国内で大々的に報じられて、当時のトルコ国民の感動を揺さぶる事となった。直後、皇帝勅使を日本に遣わせての答礼とも併せ、トルコ国民なら今でも誰もが知っている歴史上の事実となっている。


又、その後1904年(明治37年)日露戦争が勃発、その際に大方の予想を覆し、極東の小国日本は大国ロシアを破ると言う全世界を驚愕させる大事件が起きた。この事はトルコ国民をして狂喜させたのである。と言うのも、ロシアはトルコにとっては長年宿敵とも言える大国であり、日本の勝利はトルコ及びトルコ人にも自信をもたらし、日本に対する畏敬の念ともなった。


第2次世界大戦では不幸にしてトルコは「対ドイツとの英国及びアメリカの関係」で日本とは敵味方に分かれたものの、外交関係は断絶せず日本の大使館は存続された。因みに大戦中全世界各国で閉鎖されなかった日本の大使館は僅かに7カ国、その1つがトルコにおける日本大使館であった。