トルコ紀行(6)親日的な国−②

第2次大戦後、東西を二分した米ソ冷戦下、トルコは1952年OECD(欧州共同体)加盟国となり、次いで1952年NATO(北大西洋条約機構)加盟で西側陣営入りを明確化する。1956年、「日本トルコ協会」が設立され翌58年4月メンデレストルコ首相国賓として訪日。1963年3月三笠宮ご夫妻がトルコ訪問各地遺跡を見学された。1970年代には両国経済使節団の交流が続きその頃から日本の対トルコ経済協力も一段と活発化する。一方、1973年の第1時石油危機、´78年の第2時石油ショックはトルコ経済を混乱させてそれがその後超インフレを惹起、挙句には軍事クーデターをも誘発してしまったのである。(80年9月)

  
然し何と言ってもトルコと日本の関係を決定的に印象付けたのは1988年7月に日本の支援で完成した「第二ポスポラス大橋」の完成である。トルコは既述の通り黒海とマルカラ海を僅か1000㍍のポスポラス海峡を挟んで東西に展開する国でありヨーロッパ大陸とアジア大陸との交通は船便乃至は橋梁による他ない、「ポルポラス大橋」に続く橋梁の増設はかねての念願であった。日本の政府借款・支援でで石川島播磨重工、日本鋼管三菱重工等の施工で完成したこの第二ポスポラス大橋は単に地域の動脈的存在のみならず、今やトルコ第一の人口1000万人を擁するイスタンブール市の象徴的存在となっている。


我々も今回の旅行でこの大橋を通りつつ、往復する車両数も多くて終始両橋共渋滞の渦で、現状既にキャパシテイを大きく超えているようにさえ見えた。それだけにこの重要な橋の完成は当時から現在に至るまでのトルコ国民に与えたインパクトは想像に難くない。又、この時期並行して、日本とトルコを結ぶ「友情の架け橋」「新シルクロード」とも称された東京ーイスタンブール間空の直行便が開通した事も大きいようだ。


更に相前後してトルコへの水力発電所・ダム建設等のプロジェクトも始動し、文化面でも両国芸術展・音楽祭・宮殿秘宝展開催等で交流と理解が一段と進んだ。このように日本とトルコは距離的には遠いながらも幾つかの出来事を通して相互理解を深める結果となり、親日感情も緊密になったと思えるのである。元々トルコ民族と日本民族は言語・風習において類似点が多く、それは祖先が共にウラルアルタイ語族で共通するのではないかとも言われる所からもきている。


何れにしてもトルコに旅してみて、この民族の勤勉さ、農業及び絨毯織物における女性の繊細さ器用さは等は日本人に相通ずるものがり、我々にとっても大変近親感を覚えるものであった。