暗くなってしまった日本人−③

okamakoto2005-01-10

この頃しみじみと感じる事は、かって昭和の初期−私らの幼少期、戦争に突き進んでいった時代−と共通した不気味な類似性があるように思われてならない。それは一言で言えば暗転する前の暗さとでも言うか、前途の見通しが全く見えない「闇雲の時代」と言うか、そのくせ「時代の風」とでも言べきか、付和雷同的に同一方向に向けて走り出し「自由に物がいえない不気味さ」の風潮もある。


勿論、今が当時と同じだと言うわけではない、今は「言論の自由」もあって一応は、「自由にものを言って良い」時代だ。当時は「治安維持法」もあり、情報も限られていて一方的で軍が主導権を持っていて統制下にあり言論の自由も全くなかった時代だった。だからか、「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」「一億火の玉」と我慢比べのような毎日で、「アッ」と気が付いたら支那事変から更には世界を向こうにまわし太平洋戦争(当時は大東亜戦争と言った)に突入していて、闇雲のうちに私自身もやがては「天皇陛下のため死なねばならない」と覚悟していた時代だった。食べ物も今のように「飽食時代」と違って、満足に3度の食事も食べられず、自分のような田舎育ちでも「ガツガツ」していた。食い盛りの年代だけに今でも未だにあの頃の空腹感は骨の髄まで染み付いていて離れない。


敗戦は正直言って物凄くショックだった。あの時、昭和20年8月15日の夜、いよいよ日本が負けたのが確実と判った時、星空の下、悔しさに夢遊病者のように2−3時間ほっつき歩いた事が未だに記憶に生々しい。その時の光景が実に鮮明な印象で何時までも焼き付いている。然しその時心のどこかで「助かったのだ、死ななくて済んだ」と言う「ホッ」とした気分のあったのも事実だったように思う。それに敗戦後の「民主主義教育」、暫くは当惑したのだが、「ホーム・ルームの時間」等で自由闊達に意見を言い合い、議論し合い「これが民主主義か」と新鮮な思いをしたものだった。押し付けられ、一方的に命令されての学校教育から「自分たちで考えて行動する」、と言うのがとても開放感があって且つ不思議な気さえしたものだった。食糧事情という面では戦時中よりも敗戦後のほうがもっと深刻だったように思うが、「配属将校」からピンタを食らったり、空腹で校庭を何週もさせらりしたことなどを超え、戦後のあの開放感の方がカルチャーショックとしては鮮烈で大きかったように思う。


さて、現在は勿論衣食も足りているし、当時に比べれば「言論・報道の自由」もあるのだが、一面何か自由・闊達にものが言えない重苦しい意雰囲気がこの国に漂っていて、それが戦争前後のあの状況に似ているように思われてならない。昭和初年大戦前の雰囲気−「一つの方向に向って一斉に走り出していた」−そのような時代に、である。