テレビの功罪ー①

okamakoto2005-01-12

テレビの影響力の大きさは今更ここで述べるまでもないのだろう。かっては新聞が「第4の権力」と言われていたが、今やテレビは「最も大きい権力、」と言っても良いのかもしれない。


テレビの「魔力」は新聞・ラジオとは違って視聴者の「五感を虜にする」ことにある。 少なくともその間は視聴者の「目」と「耳」と「大脳」を総動員させ専有して、人をして他の事から「思考停止状態」にする。受身だけに人間は安直になりがちなのである。テレビの広告媒体価値がラジオ・新聞・雑誌等他のそれに比し圧倒的に強いのは「視聴覚」に訴え、時として「人間の動き」までも停止状況にして集中させ得るからだろう。企業は広告宣伝によって商品売り上げが大きく影響され、それによる媒体効果を再度宣伝につぎ込んで収益の再拡大を図る、ことはよく知られている。


近年の政党も「宣伝広告費」に大枚をつぎ込む。民主主義が「多数決」を原則としていて、「考えた末の1票」も「他力的1票」も同じにカウントされる以上、多数派工作を一概に悪と決め付ける訳にもいかない。「国民の人気」を政権基盤にしている小泉氏さんが広告業界最大手「電通」の指南を受けている、と聞くと「なるほど」と合点がいく。確かに大衆相手の広告宣伝では「短いフレーズ」を繰り返し反復させる「リピート」が最も効果的で(費用も少なく効率的)なのだ、これは広告宣伝業界の鉄則との事。


かっては議会は「言論の府」であった。「憲政の神」と謳われた尾崎行雄翁や斉藤孝夫氏は戦中戦後の日本の行く末を案じ、何時間にも亘る名演説で民主主義・反戦平和主義を議会で説き討論に付していた。今は「改革なくして成長なし」「自民党をぶっ倒す」、「郵政改革」「自衛隊が行くところ非戦闘地域」と、威勢のよい言葉でそれを繰り返せばテレビがその場面を何度も繰り返し放送してくれて「大衆受け」するらしい。 然し本来政治は「論理の世界」なのだ。


平和憲法」が何時の間にか「憲法改正論」になり「国際問題を武力で解決を計らない」が、何時の間にか「片方に武力で加担し」「イラク派兵」が既成事実となり当然視されていく。 更に「有事立法」、「国民保護法案」となり、「自己責任論の展開」で「若者が惨首」されそうになっても「イラクから撤兵しない」と実質的に日本青年を見殺しにする。「憲法改正反対」の声が小さくなったと思ったら大マスコミの新聞が先頭にたっての「憲法改正案」、そして何時しか「戦争可能な憲法改正」が政治日程に上がってさえいる。このような「世論」の流れ変化と言うのは「何故このように移ろい易いのか」を考えた時に、勿論日本人特有の「お上意識」とか「従順さ」もあるが、私自身はマスコミ、特に最近のテレビー特にNHKーの「偏向・低俗化傾向」が大きいのではないかと感じている。


テレビは今や一人1台時代で家庭の部屋まで入り込んでいる。幼年層にも「面白おかしい番組」で「若者・ご婦人方」から思考能力を奪っているのではないか。