過去の日本の政治家

okamakoto2005-02-17



EUの事を取り上げつつ、自然に「この国の未来」に想いは行く。偶々昨日鶴見俊輔氏の所論を引用させて頂いたのだが、その中で氏は「明治以降、国の指導者は学校の成績本位に変わったこと」が近年の視野狭窄の人物に国の指導を委ねる結果となっているのではないか、と指摘されている。


昨夜、その事を考えながら、聞くともなくNHKの音声を入れていたら[その時歴史は動いた]で、ワシントン軍縮会議の全権大使加藤友三郎氏の賢明な外交手腕についてが主題の放送をやっていた。氏が「国力を涵養し、外交手段により戦争を避けることが目下の時勢に於いて国防の本義なりと信ず」と、対米英との海軍装備比を「10:7」を強硬に主張する軍強硬派に(米)10(英)10、対(日)6で甘んずべきだと、説得する場面である。「国防は軍人の専有物に非ず」と、今から84年前、1921年(大正10年)の事である。


加藤全権が軍縮会議最終日、「日本は米英の提案の促したる高遠の理想に共鳴せざるを得ず、故に欣然本提案を主義上受諾し、海軍装備の削減に着手するの用意あり」と、日本の応諾態度表明に、「日本脱退」を予想していた大方の各国代表団から万来の拍手が止まなかったと言う。勿論それまでに加藤全権の窮状を察した東郷平八郎元帥の陰の全面的バックアップが大きかったとも。


加藤友三郎氏は翌1922年6月、第21代総理大臣に就任、シベリヤからの7万人撤兵を決断、然し、1年余りの1923年に63歳で亡くなられた、と言う。日本が満州事変を惹起するのはその後8年後1941年(昭和6年)だった。自分が生まれた年、以降日本は一瀉千里に軍拡に走り、破滅への道をひた走っていく。

(写真上は車窓からの「立山連峰」:下は中越六日町付近:2月13日)