日米開戦への推進者


昔の軍隊もそのようだった、敗戦時の総理大臣としてA級戦犯となり「極東軍事裁判」で、有罪の判決を受けた東条英機氏は、陸士、陸大卒業後、関東軍参謀長に就いた、典型的な「キャリア組」であった。第二次近衛内閣で陸相に就き、主戦論で近衛首相と意見の対立を見、その結果第三次近衛内閣は総辞職、代ってその後、第40代首相に就いた。


東條は天皇の信任も厚く、陸軍の強硬派を抑え得る唯一の人物として「毒で毒を制する」意図での登場だったが、結果的にはむしろ軍部強硬派の先頭に立ち、戦争への道を進めて、最後は開戦の戦争責任を負い絞首刑を執行された。


文官としては昭和16年、太平洋戦争開戦時の商工大臣だった岸信介氏は東京帝大法学部を首席で卒業して、農商務省に入り、「満州の三スケ男」の一人として満鉄で辣腕をふるい、商工省次官に戻って大臣まで行った経歴を見ても多分、頭の切れる人物であったに相違いない、


外務官僚についても同様だった、松岡洋石氏は「苦学力行型青年」だった、13歳で渡米し、苦学の末にオレゴン大学を「2番の成績」で卒業して、日本の「外交官試験に合格」、外相就任まで満鉄総裁を5年間やっていた「満州の三スケ男」の一人(洋石は「ようすけ」と読む)。外務省本省に戻ってから外務大臣をやっていたのだからこの方も優秀である事には間違いはないのだろう。