国のリーダー

okamakoto2005-03-29



孫子は二千五百年前に「兵法」の中で「指導者として具備すべきは、冷静な智力、信頼、思いやり、勇気、厳格さである」、としている。


昭和初年の「宰相像」はどうだったのだろうか。このような問題を考える際に、どうしても「第三者的立場」に立たないと物が言えなくなる、従ってここは記録から見ての立場で述べたい。


昭和元年の「第一次若槻内閣」から昭和16年の「東條内閣」まで、16回の内閣が誕生・交代している、従って1回の内閣は平均1年の短命で終わっている。そのうち若槻内閣2回、近衛内閣3回の組閣をやっているので、延べ13人の宰相が天皇から拝命を受け組閣した事になる。


その中で最も重要な役割を担ったのは、近衛文麿氏の内閣である。(第一次内閣12年6月ー14年1月・第二次15年7月ー16年7月・第三次16年7月―同10月)
第一次内閣時には「日中戦争の処理を誤り、長期戦の道を選択した」、第二次内閣時、「新体制運動を推進し南進・三国同盟政策を決定した」、第三次内閣時には、「米国との妥協に失敗し、対米開戦論に傾いた」。(以上「昭和史年表記録」による。)


近衛文麿氏は名門五摂家の筆頭「近衛家」の出で、天皇の信任も厚く重要局面で重責を担った。敗戦直後の12月6日、GHQから戦犯の指定を受け、10日後の16日、出頭直前に服毒自殺を遂げている。