回想


そんな事から、自分でも、「忘れてしまいたい」と思いつつも、一瞬も脳裏から去らない「8年前の過去の事」を思い出している。全く自分の不手際としか言いようがない事だったが、それにしても妻や子供達にその事で迷惑をかけ、誠に残念な事、と慙愧に耐えない。


自分が20年の銀行員生活から独立して、創業した会社の仕事は「最も社会的な仕事だった」し、創業18年で社員100人、資本金1億、売上も50億の会社だった。「上場を目指しましょう、協力します」、とC社から3千万の資本と3人の社員を受け入れた。


「自分達がしっかりやりますから<会長>でどうでしょう」「もう任せて下さい、貴方は<相談役>でどうでしょう」「株は子供さん達に<譲られて>良いではないですか」、「子供さん達を支えてしっかりやりますよ」。


自分も根が意地っ張り、「行くもんか」。関西は大阪のIT関連の上場会社だった。


今から思い返しても話に乗った自分に非があった事は間違いない。39歳で創業し殆ど365日休みなしで走り続け、多分疲れが出ていたのだろうし、「少し休むか」の気持ちがあったのも事実だった。「業界一」の慢心がなかった、と言えばウソにもなろう。


ただ「会社が伸びてくれたら良い」、その一念だけだった。正直、「株」に対する正確な知識も格別な執念もなかった、勿論金融機関に20年も居たのだから過半の株の所有者としての意味は頭では判っていたのだが、何しろ「甘かった」としか言いようがない。


その会社C社に、「うまうまとしてやられ」、「潰され」て「ホゾ」を噛んで見ても元に戻らない、反省する事が余りにも多く、居ても立っても居られない何日かの苦悶の末に「もう一度再起を期そう」、と、その後色々トライをもし続けてきた。


天国から地獄の底まで「蹴落とされ」、然し今更ながらだが、多くの事も学んだし、個人的には「凄い経験をした」と思っている。ただ、自分自身は仕方ないとしても、お力になっていただいた多くの方々、妻子には申し訳ない気持ちで一杯なのである。


今現在は、「過去を忘れてしまいたい」の気持ちだが、何れそのうち、経緯等については気持ちが落ち着き次第、記してみたいと思っている。


「三日坊主」で終わらないで、何とか、この日記も「三カ月」は過ぎたようだ。幸いその間、日本の過去の歴史を紐解きながら知り得たことも多いし、若い時代に不勉強だったのでこのような機会を持ち得たことに心から感謝している。4月からは病院へ行く日も多くなってきたので多少空く日もあろうかと思っている。

  戻り寒、桜の蕾(つぼみ)、首すくめ

  投薬(くすり)待つ、車椅子老人、桜餅食(は)み

  春風に、女子学生携帯電話(でんわ)、のびやかに

                      まこと