沖縄復帰


事実、佐藤首相は在任中に沖縄復帰を果たした。実際に沖縄返還協定調印されたのは首相就任6年後、昭和46年6月17日であるが、その間の交渉上の障害は「米軍基地」の存在と「核」問題であった。佐藤首相は当初「核抜き本土並み」を表明していたが、最終的には「米軍基地の存在は認める」が「非核」問題は「玉虫色」決着となった。


調印直後から「秘密協定」の存在は噂されているが、詳細は明らかではない。然し、「朝鮮半島有事の際は沖縄基地からのアメリカ軍の出動を認める」事は政府も確認している。復帰交渉前後を通して地元及び革新団体から「復帰反対運動」が根強く続いているのは「極東最大の米軍基地」の問題で、「本土も沖縄並みになる」懸念である。


尚、ごく最近、米軍再編問題に関連して、沖縄に「米軍司令部機能移転構想」が浮上してきている。全世界を米軍の行動範囲と考える米軍とすれば戦略的に沖縄基地は「アジアの要」として重要度は高まる一方だと思われる。日米安保及び日米沖縄秘密協定でどのような約束が交わされているのか疑問は消えない。


佐藤首相は外遊に際し、2度も学生等のデモに遭遇している。42年10月8日の「第一次羽田事件」では学生一人が死亡している。更に1ヶ月余り後の、11月12日訪米の際にも、「第二次羽田事件」が起きて、大規模のデモ隊と警官との衝突事件が起きている。ベトナム戦争反対と沖縄の恒久基地化に対する反対運動だった。