「上に甘く」「下に厳しい」

okamakoto2005-10-27



ノモンハン事件の責任を明示する」、としての人事異動は、事件収束後、三宅坂上の参謀本部から発令された。


その内容の主だったものは、参謀本部次長・作戦部長は予備役へ編入、現地関東軍司令官・参謀長も予備役に編入となった。


「辻参謀(当時少佐)が勝手に第一線に行って部隊を指揮したり動かしたりし、軍規を乱した、予備役編入が相当」との軍司令官の意見具申は却下され、辻参謀は「司令部付け」となった。


辻政信参謀(当時少佐)は、この時に一旦は閑職となったが、責任を問われる事なく、その後の太平洋戦争で中佐(更に後大佐)としてマレー上陸作戦参謀、ガダルカナル攻防戦参謀、ビルマ方面軍参謀として悪名高い「死のインパール作戦」を指揮強行していく。


当時からの風潮として、辻参謀のように勇ましい積極論者は大目に見て「過失を犯しても処罰は形だけ」で済ませ、逆に「慎重論者は卑怯者」と見て厳しい責任追及がなされた。


激戦の中で歩兵第26連隊の如く損耗率91.4%にも及ぶ連隊ぐるみ全滅した連隊もあり、戦死又は自決した連隊長7−8名、残ったのは僅かに3名のみであった。


最前線で勇敢に戦った指揮官、一般将兵には特に厳しく過酷なものとなって行った。その事例を2−3挙げる。