参謀「辻政信」の軌跡


学校での成績が優秀だった事で、特権幹部に就く軍隊組織(現在は官僚組織)のあり方に問題がないのか、そのことを考えさせる上で太平洋戦争でリーダー役を果たした参謀「辻政信」の事例を考えてみたい。


関東軍で「軍規を乱し事件を起し、勝手に第一線に行って部隊を指揮したり動かしたりした」と言われた「参謀辻政信」は、昭和6年陸大をトップの成績で卒業したいわゆる「エリート」だった。


ノモンハン事件当時既に少佐だったが、事件を機に一時は司令部勤務となったが、翌15年には中佐に昇進し、参謀本部勤務となっている、(後大佐)。


昭和16年太平洋戦争直前9月に第25軍参謀として緒戦のマレー攻略戦では奇策を用いて部隊を直接指揮する、


その功績を認められ、翌17年参謀本部作戦班長となりニューギニアビルマガダルカナル攻略戦を中心的に指揮する。


辻参謀はこれらの作戦を大本営に強硬に主張し強行した、と言われる、何れの戦いも補給の伴わない「現地調達」の無謀な「飢餓行進」で、多くの日本兵が戦いよりも飢餓で命を失い、結果的に何れも悲惨な失敗に終わっている。


シンガポール華人虐殺」、「米英兵人肉食事件」も、このような状況下で起きた、山下司令官が敗戦後その責めを負わされて連合軍に処刑されている。


辻参謀は、敗戦時はビルマ方面軍参謀だったが、敗戦と同時にタイ・仏印・中国の奥地で逃亡潜伏生活を送り、3年後「戦犯指定」が解除されたのを見計らって日本に帰国した。


その上、潜伏中のタイ・仏印・中国での経験を劇的・感動的に著作した「潜行3000里」は読書に飢えていた当時の国民に大きく関心を呼び当時の「ベストセラー」となった。


辻政信は、その名声と資金を元に、昭和27年の衆議院選挙に出馬(石川県1区)、トップ当選を果たし、国会議員となった、昭和34年には参議院に転じている。


然し、国会在職中に昭和36年東南アジア方面へ出国して、以来消息不明となっている。以後の行動に就いては諸説あり、昭和43年高裁から「死亡判決」が出ている。



(写真は横浜・ランドタワービルから)