敗戦前後

okamakoto2005-11-01



松岡外交(日米開戦時の外相松岡洋介)はヨーロッパ戦線で、同盟国ヒトラー・ドイツが勝利すると確信し日本外交を「日米戦争」の方向に誘導した。(この事は既に3月24日の「開戦決定の瞬間」「松岡洋介外相の人物像」で述べた。


日本は既に開戦3ヶ月前、東條内閣のもと、昭和16年9月6日の御前会議で「帝國国策遂行要綱」を決定し、実質的に天皇の前で対米戦争を決めてしまっていたのである。その時点で「運命の矢」は放たれていた。


ノモンハン事件ソ連軍総指官ジュ―コフが「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢でだったが、高級将校は無能だった」、と言ったように「太平洋戦争」でも全く同じ構図だった。大戦では、日本の将兵は実に勇敢に戦った。


戦争指導者には武力での「勝利の確信」はなかったのだ、だからこそしきりに「天佑」を言い、「神国日本」を強調して精神力での「神がかり勝利」を絶叫していた。


物量を誇るアメリカ軍の前に「竹槍と精神力」で立ち向かった日本は完全に叩きのめされた。内地の72都市は焼き尽くされ、戦死者・戦争被害者・外地に残された同胞を含め国民は無残にも敗戦で奈落の底に突き落とされたのである。


敗戦後、日本国民は懸命に復興に尽くし、廃墟の中から奇跡的に経済力もつけていく、経済面では途中、昭和25年の「朝鮮戦争」特需も日本の復興に幸いした。


敗戦で国土も狭まってしまった、ポツダム宣言(米ソ連合国の日本敗戦後処理取決め)受諾で、朝鮮・台湾・南樺太南洋諸島は自動的に日本領から切り離された。