「A級戦犯」復活

okamakoto2005-11-05



開戦時の東条英機内閣で戦時中核閣僚だった岸信介氏が、A級戦犯容疑者でGHQに逮捕され、3年後釈放されてから僅かに7年で国のトップ「首相」の地位に上りつめた。


これは、幾ら敗戦後の混乱期で、戦時中の主要指導者が「公職追放」で払底していた時期とは言え、異常と言う以外に表現出来ない状況と言わねばならない。


サンフランシスコ講和条約が締結されたのが敗戦後6年経った昭和26年(1951年)9月4日であった。米ソ東西対立が顕在化し、日本を西側陣営に組みこくべく、アメリカ主導の講和であった。


当時、国内でも「全面講和」か「単独講和」かで国論が二分した、全面講和」を主張した東大総長を「曲学阿世の輩(世間知らず)」と切り捨てたのが当時の吉田茂首相だった。


更に、昭和27年(1952年)10月1日に実施された第25回総選挙では、追放解除者が329人も立候補し、岸信介始め・鳩山一郎石橋湛山ら大量139人が当選、一挙に復古調が台頭した。


昭和29年、6年余りの長期に亘った自由党の吉田内閣に対して、鳩山一郎岸信介が中心になって新たに保守新党日本民主党」を立ち上げた。


日本民主党」は反吉田政権勢力を結集し左右社会党を巻き込み「内閣不信任案」を提出、これによって12月7日吉田内閣が総辞職、日本民主党鳩山内閣」がスタートした。


この鳩山内閣では、2年間の在任期間中に主に2つの事をやり遂げた。一つは自由党民主党を合体させ、「自由民主党」に大同団結を成し遂げた事である。二つ目に「日ソ平和条約」を締結した事であった


保守合同は、社会党の結集に危機感を持った保守陣営が再度、再結集の道を選んだものである,ある意味で「緊急避難的」「権力執着意識」の選択だった。


従来社会党は路線の違いから左右に別れていたが「左右社会党」が統一し、社会党政権が現実味を帯びたのに対抗する手段だった。


統一社会党は、大会で委員長に左派の鈴木茂三郎氏を選出、書記長には右派の浅沼稲次郎氏を選出し、政権奪取に意気が上がっていた。


保守大同団結で「自民党」が誕生したのは「社会党統一」の僅か1ヵ月後の事である、昭和31年10月、鳩山首相はこれを花道として引退を表明した。