東北「悲劇の歴史」

okamakoto2005-12-14



「米」を主食として来た日本においては、歴史的に農家米作の「豊作」、「凶作」は、即、日本の経済・社会・政治全般に様々な影響を及ぼして来ている。


昭和初期の東北・北海道では、冷害と不況が連続して起きた、即ち、昭和6年、7年、9年と、相次いで冷害による凶作が起き、世界的不況とも重なり日本中が暗黒の雰囲気となった。


その折には、凶作の各地で「欠食児童」「娘の身売り」「一家心中」「自殺」等、悲劇的事件が相次いで起きて、その影響は全国に及んだ。


これら天候がもたらす「自然現象」での直接・間接の大被害も、更には「貧富の格差拡大」等の「社会的不条理」のしわ寄せも、何時の時代でも社会的弱者である「弱い層」に最も厳しく作用するのが常である。


又、どの時代でも、これら悲惨な事態に最も鋭敏に反応するのは「正義感」旺盛な「若い世代」である、昭和7年、軍部急進派による「5・15事件」、昭和11年の「2・26事件」は、これら東北地方の悲惨な状況を目の当たりにして起きたものだ。


当時、正義感に駆られた若手将校達が政治の「無為無策」に憤り、決起したのがそれら事件の社会的背景であり発端であった。(事件の詳細は、この日記3月14・15日に記した)


然し、この事件は、当時「軍一部の反乱」として処断された、この事件を境に、軍部は実質的に政治の実権を握り、満州事変、日支事変、本格的日中戦争、更には日米戦争(太平洋戦争)に突入するまでになる。