我が家の「功名が辻」①

okamakoto2006-01-31



今日で一月も終わり、明日からは早くも二月に入る、そこで、先週までの主題「若さということ」の締め括りとして今回は我が家の「功名が辻」としたい。


今年のNHK大河ドラマは「功名が辻」で、戦国武将「山之内一豊の妻」千代さんの賢夫人ぶりが見どころだ、と聞く。


自分達の事、特に女房の事を記すのは最も妻の嫌がることだし、避けたかったのだが、実際に我が家の妻には「山之内一豊の妻千代さん」以上の苦労をさせたし、よくやってくれた、と思う。


先ず結婚についてだが、あの時代は「恋愛結婚」は少数派だったと思う、田舎は特にそうだった、殆どが「見合い結婚」であった。


我が家の四人の姉妹も「見合い」で結婚したし、結局自分達夫婦も「見合い結婚」となった。それも見合いもお互い初めての経験であった。それまで妻も「縁談」は断り続けてきていたと言う。


彼女の場合は「自分はまだ若い」と云う理由だったが、自分の方は、正直いえば、当時東京で密かに好意以上の感情を持つ人が居た。


同じ職場で時折、同僚達と映画を見たり、日比谷公会堂での音楽会やバレーを見に行った事もある一方的「片想い」の相手であった、彼女は洗礼も受けたという生粋のクリスチャンだった。


然し、結婚となると自分の田舎の境遇からは、とても都会育ちの人とは結婚出来ない理由があった。それは百姓の長男の嫁さんとして農作業をしてもらわないといけなかった。


農村では、敗戦後の「農地解放」で、「自作農政策」が採られ、我が家もそうだが、旧地主はそれまで小作して貰っていた田畑はなくなり、窮乏に貧していた。


我が家は、自分が居ない間、残った約1.5町歩を従来の小作の方たちに再度預けていた、ところが、「嫁さんが耕作しない限り返さぬ」と云われている由、日頃母からくどいほど聞かされていた。


兎も角、夜学を卒業したら一旦は田舎へ戻らねばならないと自分に言い聞かせていた。縁談は妹からのもので「気立ての良い娘だ」と、妹嫁ぎ先に近い(旧地主次女)の話を母から手紙で云って来たのだ。


双方共に「見合い形式」でないなら、と、帰省時に会う事になった、場所は兼六公園だった、間に入った妹が気を利かせて、そうなったのだ。