義父の「深謀遠慮」


銀行を辞めて「独立した事」は、事務所を構えてから、旬日を経ずに郷里へ向い、母は勿論、姉妹及び旦那、それに妻の里の両親にも報告に行った。


勿論、「それはよかった」と言う人は誰一人としていなかった、また、居る筈もない、皆が自分の先行きを危惧していたようだ。


妻の両親も同様だった、最も心配したのは実は妻の両親だったのではあるまいか、然し妻の父(当時職安所長)は、その時は苦情めいた事は一切言わなかったように記憶する。


妻の叔父(義母の弟)が銀行支店長(札幌支店長)で、ある程度の事情は聞き知っていたからだと思うが、それにしても両親としては、決して心穏やかではなかった、に違いない。


退職後1―2年後経ってからの事だが、妻の実家入り口の門を入った直ぐ左手の一角に、約10坪余りの小屋が建った。


後日になるが、妻が話すところでは、「里のおじいちゃん(義父)が、お前達が行き詰まった時には、皆でここに来い」と言ってくれたのだ、と言う。


「その小屋」は、義父が、自分達親子の将来を慮(おもんばか)っての万一に備えた「遠慮の住い」であった。(義父の杞憂が不要となった現在、そこは自家用車と作業車の車庫になっている)


その義父は、今を遡る事17年前の盛夏、庭の草花にホースで水を撒いていて真夏の8月「心筋梗塞」で急死してしまった。義母が外出先から帰宅し、救急車で病院に運ばれた時には、既に手遅れだった、と聞く。


義父葬儀の当日、仕事上で取引先グループの一員として外国に行っていた最中、急な葬儀には妻と、当時或る銀行勤務の長男が出てくれた。


それにしても穏やかで優しい妻の父・両親であった、今にして思うが、自分は何処まで行っても妻や子供のみならず両親にまで「不孝者」であった。



(写真は雪の金沢・石川城の正面)