業界状況


実は、それ迄も、それ以降もバス会社への営業活動は全く変わりなく継続していたし、都内の各社を回り情報も仕入れ、協会にも精を出していた。


国の方針として「運輸政策審議会」から「バス・タクシーのあり方」としてバスを見直そうという提言が為されたのもその前後だった。


その提言を受け、都内の乗合事業者で協会内に「施設改善委員会」が設置され、バス停を電照式にすることも決まった。


然し、何分も各社の経営は乗客の減少で先細り傾向が明白だった。従って金のかかる事にはどの社も腰が重く慎重だったのだ。


因みに全国の乗合バスの利用者は昭和40年代には100億人もあった、然し50年代には2割も減って80万人台に落ち込んでいた。更に昭和60年以降はそれが60億人台へと減少し、この傾向に歯止めが掛からない状況が続いていた。


これは昭和40年代以降の急激な「マイカー時代」への幕開けと軌を一にしている、マイカー急増とは正に裏腹にバス利用者は反比例の関係となっている。


自家用乗用車数は、昭和35年に、全国でたったの36万台だった、それが40年代には実に5倍の180万台となった。更に45年には660万台、50年には1500万台近くまで、15年間で40倍もの急激な増加を見ている。


イカー時代の到来に伴い、鉄道・バス等の大量輸送機関は急速に苦悩の時代に入っていく、バス各社は収支悪化に伴い、運賃値上げで対応する、それが又乗客離れを加速すると言う、完全な悪循環に陥っていた。


この趨勢に「施設改善等」で歯止めをかける、と言うのが当時の方向であった、但し、それには資金が要る、それによって乗客離れに歯止めが掛かると言う保証も見通しも立たなかったのも現実であった。


そのような状況から、自分は長期戦覚悟で、歯を食いしばっても頑張っていくしかないと腹を括っていた。


然し現実はそんな安穏とした状況ではない、具体的に事業が進展したのは会社創立2年半後の事になる、その間どうして会社のやり繰りしていたものか、兎も角当時は無我夢中であった。


何より、その間妻がどうして家計をやり繰りしてくれていたものか、二人の子供達を大学に入れ、アパートの家賃を支払い、窮乏に耐え、然し正面切った苦情は言わなかった、その事が自分にとっては唯一の救いだった。



(写真は東京・江東・猿江恩賜公園