低下した官僚の使命感


日本の官僚は世界的にも優秀な頭脳集団ではあるが、自民党長期政権の下で「政高・官低」が定着、官僚は「政・官・業」癒着構造に組み込まれてしまった、官僚もまた「面従腹背」が身についた。先ず、官僚の主要業務である予算制度から見る。


日本の国家予算は、次年度支出(歳出)予算を、各省庁要求を個々に集めてトータルして収入(歳入)に関係なく前年末までに先に決めてしまう。各省庁予算は、夫々各係・各課・各部・各局で積み上げられた「前年実績」に基づいて要求される。


役人は自分の(担当した)予算を通すことに全精力を注ぐ、仮にそれが無駄な支出(カネ)と判っていても前任者から引き継いだものは死守し、むしろ「パーキンソンの法則」通り、増やす事に全精力を注ぐ。係長は係長で、課長は課長で、部長は部長で、局長は局長で役人生命を賭け奮闘する。


他の部局より遜色(増加しなかったり、減額されたり)すると、即、官僚としての力量が問われる。勿論出世にも影響する、省庁単位では担当大臣及び次官の政治生命にも影響する。


官僚相互に競争し合い、競い合って彼等はその結果がお国のためだと信じている、実際は個々には疑問を持っのだろうが、疑問を持つことは即自分の仕事の「自己否定」となる、プライドが許さないのだ、まして個々の官僚としての力量評価は予算獲得結果による。


一例を今問題になっている防衛庁の「米軍への思いやり予算」で見る、1978年時の金丸防衛庁長官が「円高ドル安」の状況から特別に例外措置として62億円の支出を「政治的」に決断したのが最初のスタートだった。


日米地位協定」にも該当しないこの支出は、当初は1―2年の臨時的な処理の積りだったのだろう、ところがこれが既定事実となってしまい、近年では実に40倍近い2400億円にも膨れ上がっているのである。


これはほんの一例に過ぎない、一旦予算に計上された支出は既定事実化し実績として固定化し既得権化し膨張し続ける。「実績主義」「対前年度比主義」「縦割り行政」の弊害の最たるものだが、各省庁の既得権益化した支出で国の予算は年々累増する宿命にある。



(写真は東京・新宿西口ビル屋上から都庁方面を望む)