「政治主導」が税制にも


その「税」の聖域に政党が注文をつけあからさまに介入し始めたのは、日本が高度成長期から低成長期に入る40年代後半頃からだったように思う。「自民党税制調査会」(通称「党税調」)が与党の威力をカサに行政(大蔵省)に圧力を掛け「税を捻じ曲げ始めた。


大蔵省主導のアカデミックな頭脳集団であるべき税制を研究し、政府に提言している組織である。


ところが、自民党税調が力を得るに従い「政治主導」の掛け声の下で政党が税の主導権を握る事になる、元々の「政府税制調査会」を押しのけ、「自民党税調」が税の仕切り役になった。


税の改廃・税率の改正は与党議員の集まり「自民党税調」で議論し決定して、それを「政府税調」に持ち上げる流れとなってしまった。政府税調が党税調に従属する「主客転倒が起ったのである。


当時、自民党中曽根派に「税制の天皇」と称された議員がいた、「山中詣」が政界風物詩になっていた、政権交代もなく、自民党一党独裁状態の中で税制も完全に自民党の思いのまま「党高政低」の状態が現出しその流れは現在も続いている。


毎年、年末近くなると自民党本部・議員会館前の廊下には地方からの予算獲得陳情団が殺到するのが定例の光景だった、昭和50年代に入ると圧力団体の陳情は、それまでの「予算付け獲得」から特定業界への「税減免への圧力」と並行するようになった。「税」が政治の利権に組み込まれたのである。


それに比例して「税の歪み」が年々酷くなって行った、最も税の歪みを大きくしたのは竹下内閣での「消費税創設」であった、竹下氏は「打ち出の小槌」を手にする為、「税撤廃」「免税」「減税」の「約束手形」を財界・業界に乱発した。


竹下氏にしてみれば、何れ消費税の逐年税率アップで約束手形分の税の転嫁は容易と踏んだに違いない、然し実際の税率アップは橋本内閣での5%への一回のみ、その後の歳入欠陥は年々絶望的な累積となった。


最も神聖で論理に裏打ちされているべき税制の世界に、政治が土足で上がってきて「税」を「妥協」と「取引」と「利権」の材料として使い、片手に「打ち出の小槌」を政治家に持たせると、これこそ「亡国の図」になるように思えてならない


(写真はこの頃の日本を写しているような梅雨空に曇る東京・新宿西口俯瞰)