「裁判員制度」への疑問


被害の家族が裁判の場で被告(加害者)に怒りや心情を吐露したり、一般市民が刑事裁判に裁判官として参加する裁判員制度が始るそうだが、これって本当に「進んだ良い制度」と言えるのだろうか、感情に流され情緒的裁判になる懸念を持つ。「人民裁判」とどう違うのだろうか。


本来、司法の裁判は法に則り専門家集団で運営、判決を下せば良いではないか、冤罪・誤審を恐れているのかもしれないが全くの素人がその場に参加する事で、反って「害多くして益なし」と思う。


大体殺人は衝動的な行為だと思う、「人を殺すと死刑になる」、だから「思い留まる」と言う抑止効果や自制心が果たしてどの程度働くものだろうか、そうでなかったら「死刑」は単なる「公の」「権力による殺人」「仇討ち」でしかない。


「刑罰」は見せしめの為にあるものではない、と思う。過ちを犯した者も「反省」させ「矯正」させ、社会に復帰させるのが目的のものではあるまいか。


最近の社会風潮として、感情・情緒・怨念・怨嗟の情が強く、本来冷徹であるべき法の世界にもその影響で「自己満足」、「時流におもねる」風潮があるように思う。


政治や司法は時流とは一線を劃し、犯罪が起きないよう、格差解消と、社会的不満や不公平さを矯正しつつ公平と平和を保ち、万一犯罪者が出れば更正させる事こそが最大目的ではないのだろうか。


(写真は東京・高輪「プリンスホテル庭園」)