「日米運命共同体」


日本の生保等の機関投資家、証券会社、銀行等がアメリカから一斉に資金を引き揚げないで、対米協力体制をとったのは、大蔵省の強力な行政指導で、日本独特の「護送船団方式」が威力を発揮したからに他ならない。


具体的には、アメリカ国債の入札時期が近づくと直接大蔵省担当官から生保等に応札の意向を確かめる電話が掛ったり、生保に「4月になっても債券を売る積りはない」と声明を出させたり、日銀には「保有する外貨の9割はドルで保有している」と公表させたりと「ドル暴落」の危機を政策当局が先頭に立って防止したのである。


中曽根首相がアメリカのレーガン大統領に「日米は運命共同体」と発言したのが、1983年1月18日だったが、それから2年半後の85年の竹下蔵相のプラザ合意を受け、日本の優秀だった行政も完全に国益を見失ったかのようだ。