俘虜交換


ノモンハンでの日ソ停戦協定締結半年後に双方の俘虜交換が始り、チタ俘虜収容所から日本軍の俘虜が連行され日本側に引き渡される事となった。


殆どが激戦中に負傷して意識不明のまま敵側に捕虜となった者で、中には戦闘中、方向を見失い敵陣に迷い込んだ者も多かったと言う。


日本軍が全員青白い顔でうなだれて、伏目勝ち、体は震え、恥じ入っているのとは対照的に、ソ連軍の俘虜は交換地点に到着するや出迎え陣に全員で「万歳」の歓声を上げていた、と言う。


日本兵の多くのものは重傷で、失明したもの、手や足を失った者、お互いに助け合おうと懸命に庇い合っていたという。これらの人は戦場で「自決する力」さえもなかった状態だったと言う。


悲惨な事例を記せば限りないのだが、その中で飛行隊長として戦死したと思われていた陸士卒業の操縦将校2人の事例を、朝日新聞社刊アルヴィン・D クックス著「ノモンハン(下)」から引用する。


2人の中尉は撃墜され戦闘機は炎に包まれ、自決を試みたが意識不明のまま捕虜となってしまったのだ。