「干天の慈雨」


KAさんは折角の構想が実現せず自分に「悪い」と考えられたのだろう、その後こんな事があった。


「この間、君の方で不動産をやっていると聞いた、その中に千葉のK製鉄寮の売却話があったな、資料があったら持ってきてくれ」、だった。


まさか、これが成約にまで進むとは夢にも思わなかった、実は不動産は「千三つ屋」とも言われる。それまでに不動産でどれだけ空振りに遭ったかわからない。


仲間(業者同士)の物件で、業者から資料を取り寄せ持参した、総務部長が物件を見に行くと云うので案内する、値段交渉があって、その内に又、4―5人で見に行くと言う。


その度に先方業者を連れ出して、然し未だ半信半疑だった。と言うのはKAさんが折角云ってくれているが、当時その会社は再建途上で、KAさんは銀行から派遣された「再建請負人」だったからだ。


然しこれは結局1億2千万円で成約となり「手数料」を頂いた。KAさんは、「これは決して君の為にやったのでないよ、既存の世田谷寮の敷地を是非に欲しいと言う方があり、高く売って、広い所に移しただけだから」、と「カラカラ」とお笑いになる。


然し、自分は今でもそうは思わない、KAさんが自分の為に「一肌脱いで頂いたものに違いない」と思っている。


その金は当時、先行きの収入の目途も全く立たない会社にとっては、正に「干天の慈雨」と言うべきものであった。


昭和47年8月9日振り出し小切手「120万円」は、C社常務取締役KAさん署名入りで、その「コピー」は、今も「額縁入り」で、大切に自宅の棚を飾っている。



(写真は東京・浅草・浅草寺正面)