国は何もしてくれぬ


敗戦後もそうだったが、阪神大震災時に被災した学生時代の同級生がいて、彼はその被災経験を通じて政治と行政への不信感を一夜しみじみと語ってくれた。


彼の自宅も工場も震災で倒壊し大被害を受けたのだが「国は何もやってはくれなかった」と言う。結局は「自己責任」に帰され「自分の事は自分でやるしかなかった、一体国って何なんだろうか」と。


ところで、「国」や「国家」と、一口に言って来ているのだが、今回このことを書くに際して感じたのは、法律的に日本で「国」「国家」を安易に使うことには問題がある、と思っている。随分その立場によって中味には開きがあるからだ。


我々国民一般は「国」や「国家」と言う時に同一の民族としての集団を意識する、ところが権力の側に立つと「国」や「国家」と言うと、制御すべきもの、統制さるべきもの、となる。


司馬遼太郎さんは「この土(くに)のかたち」の中で、「明治以降のステートと呼ぶべき法による国家ができた時にも、日本はネーションを引きずっていた」と記している。


「国」「国家」に対応するのは英語では、LAND(土地・領土・国家)、NATION(国民・国家)STATE(地位・階級・国家)であるが、日本では旧くからの土地を基本にしたLAND・NATIONの概念が、権力者の恣意的STATEの観念にすりかえられ、圧倒されているのではあるまいか。



(写真は五月路傍の花)