敗戦決意


沖縄戦の敗因は陸海軍作戦の不一致にあると思う、沖縄は本当は3個師団で守るべき所で、私も心配した。梅津(参謀総長)は始め2個師団で充分と思っていたが、後で兵力不足を感じ1個師団を増援に送りたいと思ったときには既に輸送の方法が立たぬと言う状況であった。」


「海軍は「レイテ」で艦隊の殆どを失ったので、とっときの大和を出動させた、之も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した。」


「陸軍が決戦を延ばしているのに、海軍では捨て鉢の決戦に出動し、作戦不一致、全くばかばかしい戦闘であった、詳しい事は作戦記録に譲るが、私は之が最後の決戦で、之に敗れたら、無条件降伏も又やむを得ぬと思った。」


「沖縄で敗れた後は海上戦の見込みは立たぬ、唯、一縷の望みは「ビルマ」作戦と呼応して、雲南を叩けば、英米に対して相当打撃を与え得るのではないかと思って、梅津に話したが、彼は補給が続かぬといって反対した。」


「当時、賀陽宮が陸大の校長だったから、この話をしたら一時的には出来るかも知れぬが、兎も角研究してみようと言う事であった、然しこれはうやむやになって終わった。」


雲南作戦も既に望みなしと言う事になったので、私は講和を申し込む外に路はないと腹を決めた。」(以上「独白録」134―5頁)


(写真は東京・皇居・桜田門