日本没落のへの道程


実は、最初に「大統領的首相」を企図したのが中曽根首相だった。当時「国鉄は膨大な赤字を抱え」その始末が愁眉の急の「緊急の政治課題」だった。そこで「国鉄民営化」の旗印の下で「組合潰し」を企図したのが中曽根氏だった。


中曽根氏は内閣の下に「臨時行政調査会」を設け、この調査会の審議で「国鉄分割民営化」を企図し、見事に成し遂げ、ついでに左派の社会党を主体とした政治勢力を敗退に追い込み、組合組織を崩壊させた。


「臨調の会長」には、国民的英雄とも言える「質素な庶民生活」で信頼のある「質素で潔癖」な土光敏夫氏を看板に据えて、国会・国民の反対論や批判を抑えて成立させたのだが、その旗印となったのが「目刺しの食卓」で庶民性をアピールした土光氏だった。


土光敏夫の威光」を利用して、国会の議論を省き(はぶき)一気呵成に政策実現の方策を編み出したのだが、実質的な企画・立案・推進は「元大本営参謀」だった、当時から瀬島氏は政界・官界の裏の旗振り役となった。


ところが、それ以降の自民党内閣はこの安易なシステムを見習い、踏襲する事となる、内閣の下の「調査会」「各種審議会」「委員会」等をフルに活用して反国民的法律を成立させ独裁政治の道を常態化したのである。


小渕内閣での「経済戦略会議」は「日本のアメリカ化」に決定的役割を果たした、それを実質的に差配したのが時の事務局長格に起用された竹中平蔵氏である。氏はアメリカ帰りで、以降の森内閣小泉内閣で政府要職を占め、アメリカの意向を忠実に実行した、と見る。